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コンテンツへスキップ 投稿日:2022年11月13日/更新日:2025年11月18日

天の神への望郷の念と故郷を思う-3つの理由

故郷を思い出し望郷

「天の神への望郷の念」というテーマは、多くの人々にとって深い感情を呼び起こすものです。故郷を思う気持ち、すなわち望郷の念は、私たちの文化やアイデンティティの根底にある重要な要素です。本記事では、天の神に対する望郷の念を感じる3つの理由を探求し、その背後にある精神的な意義や影響について考察します。故郷への思いがどのように私たちの生活や信仰に結びついているのか、一緒に見ていきましょう。

創造主なる神への望郷の念 3つの理由

創造主なる神への望郷の念を、なぜ人間は持つのでしょうか。3つの理由を説明します。

1.人間は創造主なる神によって創造されたから

神によって創造された人間は、望郷という形で神を思い起こします。人それぞれの脳裏にある神の概念が、時々舞い戻ってきます。この記事を読んでいる貴方の心の底に、神への望郷が宿っているのです。

この望郷の思い、真実なる神への思いは、私たちの生活でいろいろな形で表現されます。神社仏閣の宗教的な儀式はその一つです。真実の神を信じていなくても、神道の神々に望郷の思いを寄せているのです。

主義主張の違いこそあれ、正義が行われるべきだという考えや行動も、神様を求める心があるからです。どの宗教でもどこの国でもどのような文化であっても、人間は常に正義が行われるようにと望んでいます。これも望郷の現れです。

人間の本来持っている本質から言えば、人間は創造主なる、真実なる神を礼拝するように、正義を真実なる神に求めるように造られているのです。真実なる神はどのようなお方でしょうか。主イエス様は、身をもって神様がどのようなお方か、どのように神様を礼拝するのかを、説明してくださっています。主イエス様は、あなたの心の奥底にある望郷の思いを、呼び起こしてくださいます。

望郷の念

3.人生の生き方が分からなく迷子になるから

人が良心がまったく麻痺していない限り、人は正しい事、善い事をしたいと思います。(いつもそれが出来るとは限りませんが・・・。そこに人間の性があります。)正しい事、善い事をしたいという思いは、神への望郷の現われなのです。しかし、人間はその正しいことを行う気持ちを持っていても、自分自身の利益を求める欲望の方が、正義よりもより大きくなってしますのです。

さらにこの道をずっと続けていくと、人は迷路に入っていきます。何が正しいのか分からなくなるのです。結局、自分が思うがままに生きていくしかありません。しかし、時々、人は思うのです。「自分はなぜこんな生き方をしているのかな」と思い巡らすのです。そして天を仰ぎます。

貴方が本当に心の奥底が望んでいるのは、ただ単に幸せになることでしょうか。この幸せになりたいがために、人は懸命に汗水流して働きます。それでも行く着くところが行き止まりだったりするのです。こんなはずではなかったと思って、また天を仰ぎます。

人は心の底から湧き出てきる永遠の喜びを、望んでいるのではないでしょうか。快楽ではない、真の喜びを求めて、人はさ迷い歩きます。それでも喜びが見つからないので、神への望郷の思いをいだくのです。

自分の心の奥底にあるもの、それは貴方自身が忘れてしまった神への思いだと私は思います。もしそうでなければ、それは貴方自身が気づいていないに過ぎないでしょう。

望郷の念

2.神なしに生きる人生に空しを感じるから

自分が一番大切なものは何でしょうか。自分の心の奥底にあるものは何でしょうか。この人生で自分が本当に望んでいるものは?と考えるとあまり考えつかないかもしれません。

プロ野球の選手が命をかけてやっているものであっても、その人から野球をとったら何が残るのでしょうか。人は何かを媒体に生きがいを見つけますが、それがもし無くなってしまったら何が残るのでしょうか。子供の成長が生きがいの人は、子供がいなくなったら生きがいをなくしてしまうのでしょうか。

誰でもいずれ死に向き合う時がきます。でも死んだら何が残るのでしょうか。人が死んで、後世の人々が葬儀の時にはその人の死を泣き惜しみますが、葬儀の翌日には、何事もなかったかのように世の中は忙しく動いているのです。有名人、名声を残した政治家も科学者も、過去の人になっていくのです。人の名声は、長い年月を経て忘れられていきます。

望郷の念

それでも時折、何十周年記念などと銘打って、その有名人の功績をたたえたりしますが、それでも過去の歴史として残されるだけです。どんな場合においても、主役は現在活躍している人たちです。伝道者の書(コヘレトの言葉)で、著者は次のようにこの世の業績について語っています。

わたしは心にこう言ってみた。「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す。コヘレトの言葉1章16節—18節 聖書協会

人類の歴史に残すようなことをやり遂げたとしても、風を追うようなものですべてが空しいことである、とコヘレトの言葉全体で主張されています。この概念は、平家物語の「祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり」にも通じるものがあります。人間は、なぜ文化の壁や歴史の壁を越えて、「人生が空しい」と感じるのでしょうか。それは、創造主なる神様から離れているからです。こんな時に望郷の念が湧いてくるのです。

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