世の終わりは近いのでしょうか。連日、灼熱地獄と思えるような体温を超える暑さが続いています。また南海トラフ巨大地震が起きるのではないか?と恐れられています。震災は忘れた頃にやってくると言われますが、忘れてなくてもやってきます。地震の専門家も、いつ起きるのかは実際の所わからないのではないでしょうか。「いつ起きてもおかしくはない。」
世の終わりについての考えは、宗教だけでなく、科学や哲学、文化においても広く論じられています。特に、自然災害や戦争の脅威が増している現代において、多くの人々が未来に対する不安を感じているのは事実です。南海トラフ地震はその一例であり、過去の歴史を振り返ると、地震や津波がもたらした悲劇は計り知れません。たとえば、2011年の東日本大震災では、多くの命が失われ、地域社会が壊滅的な打撃を受けました。このような経験から、私たちは今後の自然災害について真剣に考える必要があります。
世の終わりについての聖書の教えは、私たちにとって道標となります。特に、マタイによる福音書の中で語られる言葉は、私たちが直面する困難や試練を乗り越えるための力を与えてくれます。地震や戦争の影響を受ける私たちですが、信仰を持ち続けることが重要です。信仰の力は、私たちが困難な時期を乗り越える際の大きな支えとなります。
また、聖書の教えは、私たちが生きる上での行動指針を示しています。世の終わりについての警告は、私たちに自己反省を促し、日々の生活を見直すきっかけとなるべきです。愛や思いやりをもって他者と接することは、信仰を実践する一つの方法であり、私たちがこの世で果たすべき使命でもあります。
世の終わりは近い?
このように、世の終わりについての考えは、単なる恐れや不安を生むものではありません。むしろ、それは私たちが今をどのように生きるべきかを考えさせる重要なテーマです。私たちの行動や選択が、未来にどのような影響を与えるのかを考えることが、信仰の実践において大切なことなのです。
南海トラフ巨大地震は終末の序章でしょうか。そんなことを呟いている牧師さんもいます。キリスト教の牧師がそのような言葉で、人々をあおっているのを見聞するのは嘆かわしいことだと管理人は思います。なぜなら主イエス様は、この世の終わりについて次のように言っているからです。
さらに、世の終わりに関する議論は、私たちが直面する倫理的な問題や社会的な危機にも関連しています。たとえば、環境問題や貧困、戦争など、これらの問題は世の終わりについての考察と切り離せません。私たちがこれらの問題にどのように対処するかが、未来における私たちの生存に大きな影響を与えるのです。信仰に基づいた行動が、世界の変化を促す力となることを忘れてはいけません。
世の終わりに関する議論は、深い哲学的な問いを含んでいます。私たちはどのように生きるべきか、何を優先すべきか、そして未来に何を残すべきか。これらの問いは、私たちの価値観や信念に基づいて答えを見つける必要があります。聖書の教えは、私たちがこの問いに向き合う際の指針となるのです。
私たちが未来を見据えるとき、信仰は希望の源となります。世の終わりが近づいているという恐れがある一方で、信仰は私たちに希望を与え、未来を信じる力を与えてくれます。私たちは、互いに助け合い、支え合うことで、信仰の力をより強くすることができます。
私たちの信仰は、世の終わりに対する恐れを克服するだけでなく、愛と平和に満ちた未来を築く力にもなります。私たちは、日々の生活の中で小さな善を積み重ねることで、より良い世界を目指すことができるのです。終末の時代にあっても、愛の力をもって他者に接することが、私たちの使命であると言えます。
このように、信仰は私たちの心の拠り所であり、世の終わりに対する準備を整えるための勇気を与えてくれます。私たちがどのような状況にあっても、神の愛と恵みを信じ、希望をもって生きることが、私たちにとって重要な使命です。

人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。マタイ24章4‐14節 聖書協会
最後に、世の終わりについての考察は、私たちが信仰を持って生きるための重要なテーマです。私たちは、どのような困難な状況にあっても、神の愛に支えられ、希望を持って未来を見据えることが求められています。世の終わりが訪れるその時まで、私たちは愛と信仰をもって生き続けましょう。

誰も知らない。主イエス・キリストさえも
世の終わりについての知識は、私たちがどう生きるべきかを示す重要な手がかりです。私たちは、日常の行動や選択が、未来にどのような影響を与えるかを常に考えなければなりません。信仰を持ち続け、愛を広めることが、私たちの使命であり、世の終わりを迎えるその日を待ち望む心を育むことにつながるのです。
私たちは、世の終わりが近づいていると感じるときこそ、自らの信仰を振り返り、どのように他者と接するべきかを考え直さなければなりません。共に支え合い、愛を持って接し、未来に希望を持つことが、信仰を実践する上での重要な要素です。神の計画を信じ、日々の生活の中で愛を表現していきましょう。
その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。(マタイ24章36-42節)聖書協会
世の終わりがいつ来るのか、誰が知っているのでしょうか。実際の所は誰も知らないのです。主イエス様ご自身も知らないと告白しています。天使も神の一人子でさえ知らない、、、、父なる神様だけがご存知なのです。
ですから、終末がいつかを予想して何になるのでしょうか。クリスチャンがそんな予想をしていたら、愚の骨頂です。まるで競馬の予想のようです。そのようなキリスト教の牧師がいること自体、やっぱり世の中は狂っていると思わせます。
しかし主の再臨は、確実に一歩一歩近いづいていますが、その日、その時は誰も知らないのです。

いつも準備していなさい
だからいつも準備していなさい。霊的に目を覚ましていなさい、と戒められています。主イエス・キリストは、思いがけない時にやってきます。盗人にようにやってきます。主は約束の実現を遅らせている訳ではありません。一人でも多くの人が悔い改めて救われるように、願っておられるのです。
2026年もいろいろな怖ろしい事件が起こるでしょう。また多くの自然災害が起きます。ウクライナ戦争も続きます。イスラエルの戦争は、この世の終わりまで続いているのかもしれません。また新たな紛争、戦争が起きるかもしれません。
キリスト教の中からも偽預言者が現れて「わたしこそ・・・」と高慢に言い放つでしょう。そのような人たちに惑わらせてはいけません。主イエス様にだけ目を向けて、この世の終わりである終末を待ちましょう。主イエス・キリストは再臨されると約束されました。その約束を信じ、硬く信仰をもって生きていきましょう。
しかし、今の天地万物はなくなり、新しい天と地が創られる時が来ます。涙も悲しみもない新しい天と地。死も病気もない永遠の園です。その主の再臨を待ち望み日々過ごす事、これが神様の御心です。
