コンテンツへスキップ 投稿日:2025年3月12日/更新日:2025年3月14日

ヨハネの福音書8章12節-イエス・キリストの正体に迫る

イエス・キリストの正体

イエス・キリストの正体に迫ります。イエスとはいったい何者か。世界を変えたイエス・キリストは、いったい誰なんでしょうか。宗教は星の数ほどあるかもしれませんが、イエスの教え程、(信じる信じないかは別にして)人間に衝撃を与えたものはないでしょう。他の著名な宗教家(たとえば、インドのガンジー)たちは、たとえ信じなくてもイエス・キリストの教えに耳を傾けて多大な影響を受けています。この方がどんな方なのか、信じるに値する方なのかを検証します。

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」ヨハネ8章12‐19節 聖書協会

旧約聖書と1世紀のユダヤ教の背景

イエスが「世の光である」と言った背景には何があるのでしょうか。まずは旧約聖書の背景を見てみます。

主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために。イザヤ42章6-7節 聖書協会

イスラエルの民は、諸国の民の模範となるための光としての役割が与えられていました。古代イスラエルの周辺の国々は、神々を礼拝し偶像礼拝をしていました。そのような人々に対して、イスラエルは創造主なる神、唯一の神を礼拝するように定められたのです。上記の聖句から、主キリストは世の光であると言ったのです。

しかし、ユダヤ人たちを怒らせた背景が、1世紀のユダヤ教にあります。当時のユダヤ人教の文献には、光と闇、善と悪をテーマにしたものが多く見受けられます。光は神様の栄光の象徴として捉えられていました。ですから、イエスが「わたしは世の光である」と言うのを聞いて、ユダヤ教リーダーたちは怒り心頭したのです。

同時に、イエスが言った言葉も考えてみましょう。イエスに従う人は暗闇の中を歩まないと約束されています。人間の罪ゆえに暗闇のようになってしまった世の中で生きる私たちは、無意識にこの暗闇の出口を探して生きています。世の中の混迷した状況は、いくら生活が便利になっても、主イエスが生きた2000年前も今も基本的に変わっていません。主イエスが言っている言葉は、科学技術が急激に発達した21世紀に生きる私たちにも語られているのです。

イエス・キリストの正体

ユダヤ教律法学者に対する主イエスの弁明

ユダヤ人たちは、「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」と言いました。これは人間的な観点から言えば、当然の反論とも思えます。イエスの主張を証明できる第三者の証人がいないのですから、、、。裁判で被告人を弁護する証人がゼロだったらどうでしょうか。普通の人が、イエスが言ったような事を言ったら、気が狂ってると判断され精神病院送りになってしまうでしょう。独りよがりの主張と思われ相手にもされません。

上記の聖句でイエスが言った大胆なことを列挙してみます。

  • たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。
  • 自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。
  • もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。
  • なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。
  • わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。

初めてイエスの言葉を聞いたユダヤ人たちの疑問は、21世紀に生きる私たちの疑問でもあります。一体、この人は誰なんだろうと私たちも疑問に思います。3つの可能性しかありません。(1)イエスの証言通り、イエス・キリストは神から遣わされた方である。(2)大嘘をついている。(3)気が狂っていた。関連記事 イエスの秘密

イエス・キリストの証しの重み

イエス・キリストの言葉を聞いて、私たちはどのように判断をすれば良いのでしょうか。何事も本物を見極める目は必要です。特に宗教でだまされている人が多くいる昨今、宗教を見極める目は、今の時代とても重要ではないでしょうか。無宗教という道もあります。しかし、イエス・キリストに関していえば、そうは簡単には行きません。イエス・キリストが言っていることが、万が一にも本当であったらどうなるでしょうか。もし本当であれば、一人一人に関わる問題です。大ウソであれば、まったく問題にしなくても良いのです。でも、一応イエス・キリストがどんな方であるかを考えても、得こそあれ損はまったくありません。

まずイエス・キリストの証しの重みについて考えてみます。もしイエスが気が狂っていたか、また大嘘をついていたのであれば、イエスの言葉には何の重みもありません。120%無視すればいいのだと思います。しかし、もしイエスが本当のことを言っていたとすれば、私たち人間は真剣にイエスが教えていることに耳を傾けるべきではないでしょうか。

すべてが仮定の話になって申し訳ないのですが、実際、イエスが天から来たのか否かは、誰も物理的にも科学的にも証明できません。カギはイエス・キリスト自身の言葉にはあります。「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。」これほど確かな証言はありません。実際に、自分がどこから来たのか知っているのは、イエス・キリスト本人だけです。

私たち人間の問題は、「イエス・キリストが言っていることに対して、どのように反応したらいいのか、どのように答えたらいいのか」です。イエスは「わたしのもとに来なさい。わたしを信じなさい。わたしに学びなさい」と言って、私たちを招いています。これを招待状を受けて私たちができることは、いくつかあります。無視してゴミ箱に捨てる、または机の中にしまっておいて気が向いたら読んでみよう、または実際に招待状を開けて読んでイエスのもとに行ってみるのです。世の光である主イエス様から学んでみましょう。

読者の皆様の上に、主イエス様の尊い恵みが宿りますように、心よりお祈り申し上げます。