戦争と平和は人類の歴史において常に重要なテーマであり、特に旧約聖書における戦争の記述は、神の視点を通じて私たちに多くの示唆を与えています。旧約に見られる戦争の事例を通じて、神が人間の争いをどのように見つめ、どのように平和を求める意義を示しているのかを探ります。そして、これらの考察を基に、戦争と平和についての3つの結論を導き出します。
クリスチャンは平和を願うが・・・
神の視点から戦争を理解することは、現代における平和の実現にもつながる重要な課題です。これからの内容を通じて、戦争と平和についての深い洞察を得ていただければ幸いです。
旧約聖書にある戦争の記述
旧約聖書の戦争の意味は、「わからない」と一言で片づけ、多くの方々が深く考えず通り過ぎてしまいます。多くのクリスチャンは、このような聖書の記述を「今は新しい契約の時代だ」と言って通り過ぎてしまうかもしれません。
しかし、それではクリスチャンの説明責任が果たせていません。このページでは、旧約聖書の戦争を真正面から捉え、その意味を神学的にひも解いていきます。読者の皆様の感想などお聞かせください。
無視できないテーマ
8月6日は広島原爆の日、8月9日は長崎原爆の日。日本では、被爆国の故でしょうか?他国よりももっと世界平和が叫ばれているように思えます。さらにクリスチャンの間では、なおさらのように思えます。
しかし、そのように主張しているクリスチャンが、どうしても無視できないことがあります。また、聖書の信憑性を語るときにどうしても通らなければならない道があります。それは「旧約聖書と戦争」というテーマをどのように解釈するかです。
「戦争反対!」と叫ぶだけでは十分ではない
ちなみに私は、憲法9条を盲目的に守ろうとするクリスチャンの方々とは、一線を画しています。実際に私の友人であり先輩であり70歳以上のクリスチャンたちは、強い護憲主義者です。そのクリスチャンの人たちが、共産主義の人たちと手を組んで護憲運動をしているのは、私には非常に興味深く映ります。
戦争をクリスチャンは、どのように捉えたらいいのでしょうか。「平和!戦争反対!命の大切さ!」という共通理念だけでは、説明しきれない聖句が聖書にはあります。旧約聖書には戦争が記されているのに、盲目的に「平和!平和!」と叫ぶのは無責任のように私には思えます。
クリスチャンの方は戦争反対を神の御心として声高に主張していますが、その人たちは旧約聖書の神と新約聖書の神を分けているのように私には思えます。旧い契約では戦争は肯定されたが、新しい契約では戦争は禁止されていると解釈しているのです。しかし、神がなさることに、変わりはありません。そこには旧約も新約もないのです。
戦争が命令されている聖書箇所
イスラエルの歴史を振り返り、戦争の存在を認識してみましょう。イスラエルの人々は、約400年間、エジプトの地で奴隷として働かされていました。その人たちは、神の約束と契約に基づき、エジプトから出てカナンの地(現在のパレスチナ、イスラエル)に向かいました。カナンの地に着いた時、イスラエルの人々は神様の命令に従ってカナンの地を占領します。その箇所を読んでみます。申命記20章10-17節を読んでみましょう。
さらにイスラエルの民がカナンの地に住むようになった以後も、同様に神様は「ある人々を皆殺しにしなさい」という命令を与えます(1サムエル15章2ー3節)。
このような聖句をわたしたちは、どのように理解したらよいのでしょうか。このような聖句について、クリスチャンは真剣に向きあうべきです。「平和!平和!」だけ叫んでいるのであれば、他の団体となんら変わりはありません。神様が命令した戦争の事実に、ごいっしょに考えましょう。
旧約聖書の戦争の意味ー倫理的、道徳的な疑問
「クリスチャンは『神様は愛である』と言っているのに、なぜ旧約聖書では戦争が肯定されているのでしょうか」とクリスチャンではない方からよく聞かれます。実は多くのクリスチャンの方々も、この問題について何となく疑問に思っているのではないでしょうか。
クリスチャンには説明責任がある
「神様の命令によって、イスラエルの人々がカナンの地を奪い取る」なんて、倫理的に許されていいのかという疑問が湧いてくるのではないでしょうか。それでも多くの方々は、この問題に真正面から向き合おうとしません。
なぜ神様はイスラエルの人々にカナンの地を略奪しなさい、と命じたのでしょうか。この疑問についてちょっとつっこんで考えてみましょう。戦争の存在を聖書から認めたので、戦争の存在理由も聖書から議論していきます。
罪を裁くために、神はイスラエルをカナンの地を裁くために行われた
神は、イスラエルの民(アブラハムの子孫)の将来に関して、アブラハムに預言します。遅かれ早かれ、罪が裁かれます。
カナンの罪は裁かれた
その預言の要約は、「イスラエルの民はカナン人の罪が満たさるれまで400年間エジプトで奴隷として働くこと」です。アブラハムの死後、彼の子孫であるイスラエルの人々が、エジプトで400年間奴隷として働いた後、預言通りイスラエルの人々はカナンの地に行きます。その理由が次の聖句で説明されています。申命記9章4節ー5節を読んでみましょう。
イスラエルの民は、カナンの罪を裁くために主なる神様によって使われた器でした。その罪のために、神様はカナンの人々を容赦なく滅ぼしたのです。
イスラエルの罪も裁かれた
罪に関する限り、神様はえこひいきはしません。神様はイスラエルの人々も、彼らの罪ゆえに、同様に裁かれました。イスラエルの首都であるエルサレムは、罪ゆえにバビロンによって滅ぼされました。(2列王記24章2節ー4節)
約800年後、今度は逆に、神様はイスラエルの人々の罪を裁くために、バビロンを使ったのです。人類の歴史を動かしているのは、神様ご自身です。支配者なる神様は、人間社会に介入して、人間の罪を裁くのです。戦争は、その手段とも言えます。
人間の自分勝手な武力行使は裁かれる
イスラエルの人々が、カナン侵攻の時、ある人々は神の命令と権威もなしにカナンの地を攻めました。しかし神の命令ではなかったので、みごとに打ち負かされたのです。
新しい契約のもとでは、武力行使は許可されていません。敵には逆らってはいけないと教えられています。クリスチャンは、平和的に生きるように命じられているのです。平和のために祈りましょう。
結論
多くの方々が、旧約聖書に出てくる戦争に疑問を持っています。それに対して、正当な説明がないがゆえに、クリスチャンにならない人もいるでしょう。聖書を批判的に見る人もいます。結論は、次の3つの点にまとめられます。
- 聖書は、神の権威によって行われる戦争を肯定している。神は、戦争という悪を通して人々を裁くことがある。
- しかし旧約の時代も新約の時代も、神の民が自分の判断で武力行使をした場合は、逆にその民は罰せられる。
- 「罪の報酬は死である」この原則は、聖書全体を通して教えられている。肉体的な命は、私たちにとっては大切だが、神の目からは命そのものよりも、命の使い方の方がもっと大切である。
いかがでしたか。聖書と戦争について疑問をお持ちの方は、どのようにお考えでしょうか。
