主の晩餐である聖餐式のパンとブドウ液の意味を解説します。
1.命を象徴するパンに与る。2.キリストの体である教会を顧みる。3.主イエス・キリストの十字架を覚え、神に感謝する。4.主イエス・キリストが神の怒りの杯を飲んだことを覚える。5.自分自身の信仰を吟味し罪を告白する。6.死から復活した主イエス・キリストを覚える。7.主が再臨する日まで、主の死と復活を宣べ伝える
最後の晩餐が聖餐式(主の晩餐)になった経緯と意味をすでに解説しています。まだお読みでない場合は、こちらを先に読んだ方がわかりやすいです。聖餐式のパンととブドウ液は象徴かも参考に。
主の晩餐は、クリスチャンが主イエス・キリストを覚えるために与えられている礼拝のかたちです。しかし、その主の晩餐に招待しているには、主イエス様ご自身です。目には見えませんが、主イエス様の聖霊がクリスチャンを晩餐に招き入れているのです。その意味で、主の晩餐はその名前が示す通り、主イエス様が開いている晩餐会といえます。ではそれぞれの目的と意味について解説します。
1.主イエス・キリストによって自分の命が生かされている
イスラエルの人々は、旧い契約の時代に天からパンをいただきました(出エジプト記16章)。神が与えたパンは、イスラエルの人々の命を救った象徴として扱われています。そのパンの意味を主イエス様は引き継ぎ、「わたしは命のパンである」と言ったのです。
専門的な裏話:聖書ではこのパンはマナと呼ばれています。マナと呼ばれている理由が、旧約聖書が書かれているヘブル語にあります。ヘブル語でマナは、「それは何だったのか」という意味があります。イスラエルの人々は、それが一体何だったのかが分からなかったので、マナと名付けたのです。
主イエス様の体を象徴する命のパンに与るとき、クリスチャンは主イエス・キリストが命の源であると信仰告白しています。主イエス様は、神への道であり、神の真理であり、神が与える命です(ヨハネ14章6節)。クリスチャンは、主イエス様を救い主として覚えるだけではありません。
主イエス様は、生ける命の御言葉すなわち命のパンを私たちに与えています。主イエス様のパンを食べるとき、クリスチャンは主イエス様の命の御言葉を心に刻むのです。
2.キリストの体である教会を顧みる
主の晩餐のパンは、主イエス様の体を象徴していますが、同時に主イエス様の体である教会をも象徴しています。主の晩餐によって、主イエス様はクリスチャンと契約を結んでいます。同時に、クリスチャン同士が契約を結んでいるのです。
主の晩餐では、神との関係である縦の関係を顧みるだけではありません。クリスチャン同士の横との関係も吟味します。主イエス様の兄弟姉妹との関係、隣人との関係が不健全で、神との関係が健全であるはずはありません。隣人を憎みながら神を愛することは出来ないからです。
3.主イエス・キリストの十字架を覚え、神に感謝する

「生き物の命は血の中にある」(レビ記17章11節)に書かれているように、血は命を象徴しています。旧い契約では、羊の血がイスラエルの人々の罪のいけにえとして流されました。罪が犯されるごとに、羊のいけにえが捧げられたのです。新しい契約では、主イエス様が人類すべての罪のためにたった一度だけ十字架にかけられ死んだのです。究極のいけにえです。
クリスチャンは、主イエス様の十字架を心に刻み、主イエス様の契約を覚えます。主イエス様の十字架の血がなければ、罪の贖いはありません。クリスチャン人生そのものが無に等しくなってしまいます。クリスチャンは、主の晩餐において、主イエス様から命の源を受けていると自覚するのです。神をほめたたえ感謝します。
4.主イエス・キリストが神の怒りの杯を飲んだことを覚える
主イエス様が栄光をお受けになるとき、その両隣りに座らせてくださいと、ヤコブとヨハネはリクエストしました(マルコ10章38節-45節)。主イエス様のその返答は、主の晩餐の原則を示しています。
主イエス様が飲んだ杯とは、人間の罪に対する神の怒りの杯を象徴しています(イザヤ51章17節、黙示録14章10節)。十字架にかけられる前に、主イエス様は「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈りました。ご自分が神の怒りの杯を飲まなければ、人間の罪は贖われることはないと知っていた主イエス様は、御心のままにままに祈りました。主イエス様が、私たちの身代わりになって、神の怒りの杯を飲んだのです。私たち人間の罪の責めを負ったのです。
杯は、主イエス様の十字架の死を象徴しています。主の晩餐において、クリスチャンは主イエス様が飲んだ杯を覚え、杯に満たされたブドウ液を飲むのです。この杯を飲む時にも、神に感謝の祈りをささげます。バプテスマ
5.自分自身の信仰を吟味し罪を告白する
クリスチャンは、主の晩餐において契約更新をします。主イエス様を信じ始めた初心を忘れずに、契約更新するのです。自分の信仰を吟味し確かな信仰にたっているかどうか、自分の生活を振り返ります。また、主イエス様の十字架の贖いを覚え、改めて自分の罪深さを告白します。
主イエス様は、「心の貧しい者は幸いです。 悲しみむ者は幸いです。 義に飢え渇く者は幸いです。」と言っています。自分が、日々、神の御国と義を求めるように祈りつつ、主の晩餐のパンと杯に与り、自分の生活を顧みて悔い改めるのです。
6.死から復活した主イエス・キリストを覚える
主の晩餐は、主イエス様の十字架の死を覚えるだけではありません。死から復活した主イエス様に目を向けます。現在、主イエス様は、父なる神の右の座につき天地万物を支配しています。この方は、いつか私たち人間の前に現れると約束されています。
死は悪魔の働きによってもたらされた罪の呪縛です。すべての人間が死を経験します。死に例外はありません。主イエス・キリストでさえ死を経験しました。人間の死亡率は100%です。
その死は最後の敵ですが、キリストの再臨の時には死が滅ぼされます。キリストの死からの復活は、悪魔の力を象徴する死の力がすでに滅ぼされるという予兆です。キリストの復活に、キリスト者は、日々の希望を持ち、また再臨を期待して過ごします。
7.主が再臨する日まで、主の死と復活を宣べ伝える
この世が存在する限り、主の再臨のときまで、クリスチャンは主イエス様の死と復活を宣べ伝えます。神様がよしとされたときに、すべてを支配している方が、いつか私たち人間のところに戻ってきます。クリスチャンを天に迎え入れるために戻って来るのです。すべての人間が裁かれるときでもあります。
だから、クリスチャンは毎週の礼拝ごとに、主の晩餐に与り主イエス様を覚えるのです。いつかすべての人間が、主イエス様の前でひれ伏すときが来るからです。
結論
聖餐式、主の晩餐の意味について解説をしました。読者の皆様のご感想をお待ちしております。読者の皆様のコメントは、より良い記事、聖書の教えに忠実な記事、神の御心に適った記事を書くようになれますように。皆様のフィードバックは励みになります。
聖餐式でパンとブドウ液についを頂く時、私はそれぞれの意味を覚え心から感謝して頂きます。また、聖餐式を通して主イエス・キリストによる罪の赦しと永遠の生命よりなる救いを確信させて頂く事に感謝いたします。
また聖餐の恵みに生かされ、真理の柱なる教会を建て、福音を人々に伝え、キリストが再びこの世に来られる事により神の国と救いの完成をを喜びます。
「聖餐式」でパンとブドウ液を頂く「主の食卓」は一体の感謝の気持ちであり、
むしろ讃美歌を半分づつに分けることに違和感を感じます。
「また」と言う言葉は接続詞であり、聖書の文中では「同列」に使われると思います。
コメントありがとうございます。別に伝統などないので、私たちはこだわりはないです。私は、個人的にはどっちでも良いのでは?と考えています。意見ですが。