自己犠牲と信仰:キリストに従うための条件を、戸村甚栄伝道者が解き明かします。
イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」ルカの福音書9章18-27節 聖書協会
ひとりで祈る
さて、で始まるシーンは、ひとりで祈るイエスです。直前の、群衆を前にパン裂きと魚の奇蹟とは対照的です。群衆に囲まれるとき、弟子たちと過ごすとき、一人静かなときがあります。静まりの大事さが示されます。ただ、いずれの状況でも父なる神と交わり、人々への思いの深さを教えられます。
ことの前イエスは祈ります。バプテスマにあずかるとき祈りました。十二使徒の召しの前に、夜通し祈りました。祈りは父なる神のみこころを行う力と道筋となります。御父の御前で祈るのは身についた歩みです。祈りから踏み出すイエスの御業です。キリスト者の祈りの重要性が教えられます。
弟子たちに聞く
弟子たちは祈るイエスを見、何かが始まる予感を持ったでしょう。イエスに全神経を傾けたでしょう。祈り終わって、イエスは弟子たちに尋ねます。「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」ご自身についてのアンケートをします。人々がイエスをどう受け止めているか知ることは重要です。イエスがどう見られているかは、福音の種蒔きに大事です。
「バプテスマのヨハネだと言っています。」ヨルダン川流域で、罪からの悔い改めを迫る者と見る人々がいます。ある者はエリヤだと言い、ほかには、昔の預言者のひとりが生き返ったと言います。イスラエルを告発し、神に立ち返るよう叫ぶ、預言者を連想する人々がいます。わかったのは、人々がメシヤを待望していたことです。イエスをメシヤの先駆けと受け止めました。

あなたがたはどうか
調査にイエスはコメントせず、弟子たちに問います。この問いは、調査以上に重大です。調査は、弟子たちに問う予備的なものだったかもしれません。弟子たちに問う、「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」この問いは調査と異なり、目の前のお方が何者か、弟子たちとの関係はどうか告白する機会となります。答えは彼らの生き方を定めます。ペテロが答えます、「神のキリストです。」
人々は、イエスをメシヤの先駆けとします。ペテロは、「神のキリストです。」イエスがメシヤです。メシヤがここに、すでに来ています。人々は、その時代に応えてくれるメシヤを待望します。ローマ帝国の支配から解放してくれるメシヤを強く願います。その時代の者たちに、既にメシヤが来ています、と宣言することは簡単ではありません。現状は変わっていません。帝国支配はさらに厳しくなっています。
もし、メシヤが来たと認めたなら、自分のメシヤ像を形作ることは出来ません。やがて、人々は到来したメシヤを惨い手段で殺します。律法学者、パリサイ人、サドカイ派の者、神殿に関わる者たちにイエスは憎むべき存在、意にそぐわない者です。どの時代も、自分好みのメシヤを持とうとします。神が贈られたメシヤを退けます。真のメシヤの御業は、民がメシヤを待つことを止めさせることです。
十字架を負う
ペテロの告白の後、イエスはご自身の受難を明らかにします。御国の到来を目の当たりにし「神のキリスト」メシヤであることを聞きます。これを他に漏らすなと言われ、そのうえで、ご自身が無惨な姿で殺されると聞きます。望みを抱き従ったお方から聞く惨めな終わりは衝撃です。しかし、それは必ず出来事とならなければならないのです、とイエスは言います。
受難を聞く弟子たちを十字架の道へ召します。「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」ついて来たいと思うなら・・・と命令します。自分を捨てることが、イエスの召しに応えることです。それに優る生き方はありません。自分の十字架を日々負う召しです。
ご自身の殉教を予告し、弟子たちに十字架を負い生きなさいと召します。十字架は私たちの罪と罪科を帳消しにしてくださった神の恵みの出来事です。十字架を日々負う生き方は、みこころを生きることです。あなたがたは出来ると、ご自身の受難を語るイエスが召します。ついて来なさい、と言われます。イエスにつきたい者は、みなついて行けるからです。イエスについてゆく者への約束、望みは、感謝と喜びとなります。
ルカ6章12-16節 キリストの弟子、ルカ6章39-39節 弟子の道を問う
いのちを失う者と救う者
終わりに、弟子の在り方、生き方を告げます。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」傷つき、けなされ、倒れそうになっても、今を生きようと必死です。自分のいのちを自分で守ろうとします。
その私たちにイエスは言うのです。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、」とあります。何が語られているでしょうか。明確なのは、私たちは自分を救えないことです。失うとまで断言します。懸命に生きる者に、行く末は滅びです。残酷な真実です。それも、語りの初めに、自分のいのち、とあります。私のいのちをイエスはお認めになり、しかしその自分にしがみつき、いのちの源であるイエスを断つ者の悲惨を明らかにします。
失い、と断言し驚くべき展開です。「わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」生きる主体が、自分からイエスが主体となるとき、自分のいのちを失います。ここの失いは、前文の失いとは異質です。いのちの源なるイエスに結ばれ、真の自分を得る失いです。この失いも、救いもイエス主導です。イエスに結ばれ、イエスで歩み、イエスとの交わりから賛美が、礼拝が起こります。私たちのあるべき姿です。