神とキリストを信じる理由、5つの理論的な理由を説明します。現実の世界と人間社会が、次の5つの点で聖書の説明と一致しているからです。1.すべての自然・宇宙は神によって創造された。2.人間は神に似せられた者として創造された。3.人類始まって以来の世界の混迷と人間の罪。4.キリストは人間のあり様を説明している。5.天地万物に終わりがある。
1.すべての自然・宇宙は神によって創造された
わたしたちの身の回りにあるもの、すべてには目的がありませんか。人間が造り出したもの、すべてに目的があるように、わたしたちの周りの自然、宇宙にも目的があると考えるのはおかしいでしょうか。もし自然に存在するすべてのものに目的があるとすれば、その目的を創り出したデザイナー、あるいは創造者がいると考えるのはおかしいでしょうか。

人間は、古代から神に代わるものとして、偶像を礼拝してきました。どの文化でもどの時代でも、人間は物を拝んできたのです。これらの事実から、人間には神を求める霊的なDNAが心に刻まれていると考えるのは、非理論的でしょうか。
2.人間は神に似せられた者として創造された
これらの大自然の中で人間は、他の動植物とは区別されて創造されました。たのです。人間は、神に似せられた者として、創造する力、考える能力、判断する能力、感じる能力をもって創られています。詳しくは、人間は単なる動物ですか。人間と動物の違いを参照してください。
人間は、明らかに動植物とは違います。進化論の観点から言えば、土の中にいるミミズも人間も生命体としては変わりはありません。しかし、人間が生きる本分とミミズの本分はまったく違います。ミミズは本能のままに生きますが、人間は生きる意味について考えます。人間は、命の大切さ、命は誰のものか、どう生きるべきかを考えます。人生の目的について考えます。なぜでしょうか。神に似せられた者として創造された本分ゆえに、人間は考えるのです。
「人間は考える葦である」とフランスの哲学者、パスカルは言いました。この格言の真理は、数千年前の古代も現代も変わりはありません。
創造主なる神は、動植物に自然の恵みとして食物を与えています。自然のサイクルです。同時に、神はそれらの動植物を食物として人間に与えています。人間は、神にとって特別な存在です。神によって愛されている存在です。しかし、人間はその愛に気づいていません。人間は、神の愛を空気のように扱っています。「あって当たり前」と思っているのです。感謝もしません。その結果として、人間は、次に説明する混迷する世の中で生きているのです。
3.人類始まって以来の世界の混迷と人間の罪
人類の歴史は、混迷の連続といっても過言ではないでしょう。人間の知識革命と科学革命は、止まるところを知りません。医学の発達と人間の体に関する新しい発見には目を見張るものがあります。一昔前までの切開手術が、今では体に一部に穴をあけて、痛みもあまりなく行われるようになりました。
しかし、一方で人間社会の混迷はふかまり、多くの問題に解決の糸口どころか見つかりません。科学技術がこれだけ進化しても、人間は人間社会の問題を解決できません。なぜでしょうか。
人間は、その罪ゆえに自らを苦しめているのです。国々の紛争に解決の糸口は見当たりません。社会の犯罪は増える一方です。聖書は、人間の罪が、この世に悪をもたらしていると理論的に説明しています。
人間の悪の現実をキリストは、誰もがわかるように説明しています。私たち人間が、霊的な病人であると明言しています。自分の内にある邪悪な心を認識するとき、神を信じキリストを信じると告白できるのです。
この混迷の世の中でも、人間は人生を謳歌することは出来ますが、同時に多くの苦しみを経験します。「苦しみから救ってください」という心からの叫びがあります。人間は、お互いを苦しめ合う矛盾した存在として、生きるようになってしまったのです。
- 自分勝手な人間は嫌いだが、自分自身が自分勝手に生きている。
- 自分の正義を求めますが、実際は正義に反することを行っている。
- 自己中心的に自分を愛しているが、そんな自己中心的な自分を嫌っている。
- 何が正しいことか知っているが、それを行わずに逆に悪を行う。
- 善を行うこともあるが、同時に悪と認識しながら悪を行うこともできる。
- 神を信じないと言いながら、自分で神の像を創って拝むことができる。
人間の矛盾した心は、人間たちを精神的な病に追い込んでいきます。主イエス・キリストは、私たち人間が治療が必要な病人であると教えています。精神科にかかっている人たちだけが、病気にかかっているのではありません。すべての人間が、自我の欲求によって病気にかかっているのです。混迷した世の中の現状は、主キリストの真理が真実であると物語っているのではないでしょうか。
参照記事 ヨハネ10章23-38節。キリストを信じる、ヨハネ12章36-43節 信じない理由、ヨハネ14章1節、信じるなんて不可能か
4.イエス・キリストは、神の愛を身をもって示してくれた
イエス・キリストは、神と人間の仲介者として生まれました。この方は、天において三位一体の神であった方です。キリストは、父なる神のみこころを人間に教えるために、天から降臨しました。今、わたしたちは新約聖書を通して、キリストの言葉を聞くことが出来ます。実際にこの方を、わたしは見たことはありません。しかし、キリストは、私たち人間に神の愛を示されました。
人間は、人生において何が必要かをわかっていると思っています。自我が求める自分の欲求を知っています。そんな私たちに、キリストは本当に必要なものは何かを、わかりやすく説明してくれているのです。文化を超え、時代を超え、キリストの言葉はすべての人間に語っています。すべての人間の心に響く言葉を、優しく私たちに言っているのです。
キリストは、私たち人間がこの混迷した世の中で疲れている、重荷を負っていることをご存じです。肉体的な疲れではありません。心に重荷を負っているのです。キリストが生きた2000年前も、現代社会も変わりなく、人々は疲れているのです。キリストは、私たちの心の奥底まで知っています。キリストの愛の言葉を聞いて、私たちは信じることができるのです。
自然の存在、人間の存在、そして複雑な世の中の有様を、キリストのようにわかりやすく説明した人は、人類の歴史のなかでいたでしょうか。唯一無二のキリストだけが、真理を解き明かしているのです。この方を信じることが、一番に理に適っているのです。
5.天地万物に終わりがある
すべてのものに始まりがあるように、終わりがあります。非常に頑丈な車でも10年、20年と運転していれば傷んできます。いずれ廃車にしなければなりません。わたしたちが生きている宇宙にも同じことが言えるのではないでしょうか。長い長い期間、燃え続けている太陽でさえ、燃え尽きるときがくると科学者たちが唱えています。わたしたちの命にも終わりがあるように、この宇宙にも終わりがあります。このような考えは、非理論的でしょうか。
さらに聖書は、キリストが再臨され現在の天地万物はなくなり、新しい天地万物が創られると預言しています。その新しい天地では、私たち人間が現在経験している様々な苦しみや悲しみは、まったくありません。クリスチャンは、そのような希望を持って生きています。万物に終わりがあると信じるのは、非常に理論的です。また、キリストが約束した再臨を信じるのも、1~4の理論的な理由を理解すれば、非常に理論的なのです。
管理人の個人的な理由:真理がわたしを自由にしたから
最後に私の個人的な理由があります。私は、自己嫌悪と自己中心の狭間で生きていました。この罪の呪縛から、キリストは奇跡的に解放してくださったからです。これは体験してみないとわからないことです。これは主観的な理由です。
読者の皆様は、どのようにお考えでしょうか。神が教える信仰とは、「誰々~先生が言ったから信じている」というようなものではありません。キリストのことばを聞いて信仰は生まれます。今日も、読者の皆様の上に神の豊かな愛が注がれますように。