「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」マタイ5章4節を解説します。信仰という観点において、この聖句は非常に重要な意味をもっています。しかし、自分の思い込みで読むと、誤解してしまいます。人間のニーズを解釈の軸に置くと、的外れな解釈になります。神中心の解釈をしましょう。
人生の悲劇である死に悲しむ人
私たち人間は、一生のうちに多くの悲しみを経験します。自然災害や不慮の事故で、命を落とす人たちがいます。残された遺族の悲しみは、計り知れません。
この様なとき、悲しみは誰によって慰めされるのでしょうか。多くの友人や親類の方々が、慰めの言葉をかけるでしょう。仏教の葬式では、「御仏に委ねなさい」といわれます。仏像に悲しみを打ち明けている人も、神の慰めを受けるのでしょうか。主イエス・キリストの教えの真意は、どこにあるのでしょうか。3つの原則をこの聖句は示しています。
1.その悲しみは、神に向けられるべき
その悲しみは、誰に向けられるべきでしょうか。周りにいる人たちに、悲しみと嘆きを打ち明ける人が、慰めらると教えられているのでしょうか。そうではありません。
すべての悲しみを、神に打ち明けましょう。キリストの名によって告白します。わたしたちを創造してくださった神は、わたしたちのすべてを知っています。悲しみも苦しみもご存知です。神は、わたしたちを慰めてくださいます。しかし、主イエス様がこの聖句で教えている悲しみとは、死や不幸ゆえの悲しみではありません。
2.その悲しみは、自分の罪深さを知る心の嘆き
ヤコブ4章7-10節を読んでみましょう。私たち人間は、悪魔によって支配されている世の中で生きています。日々、その悪魔を離れて神に近づきなさいと教えられています。私たちが神に近づくとき、私たちの心に変化が起こります。聖なる神の御前で、自分自身をまっすぐに見るときに、自分の罪深さを知ります。
神の光のスポットライトが、自分の心の奥底にある罪深さを明らかにします。自分の罪深い自己中心的な心が、はっきりと示されます。喜び笑っていた人も、自分の罪深さを知るとき悲しみ嘆きます。これは悔い改めの心です。
マタイ5章4節で主イエス様が教える悲しむ者とは、死や不幸で悲しんでいる人々を指しているのではありません。自分の罪深さを嘆き悲しんでいる人々は、神の慰めを受けると教えているのです。
3.その悲しみは、罪人が滅れる嘆きの悲しみ

自分の罪深さに嘆き悲しんだ預言者イザヤの言葉を読んでみましょう(イザヤ6章1節‐7節)。
私たちも、イザヤと同じように聖なる神の御前に立つとき、心が変えられます。自分の罪を悲しみ嘆きます。自分の罪ゆえに「滅ぼされる」と感じるほど、私たちは罪深いのです。そんな私たちを、神は慰めてくださると約束してくださっています。
参照記事 神様の憐れみ、慈しみ、恵み、愛、ありのままを受け入れる主イエス様の戒め
結論 自分の罪に嘆き悲しむクリスチャンの確信
憐れみ深い神は、罪に嘆き悲しむ者を慰めてくださいます。だから、日々、悪魔から離れ聖なる神に近づきましょう。神の祝福を受けると約束されています。
いかがでしたか。「マタイ5章4節ー悲しむ人々は幸いである」について解説しました。主イエス・キリストの教えを理解していただけたでしょうか。霊的な成長にお役にたてたでしょうか。読者の皆様の上に、神様の恵みが宿りますように。
- マタイ5章3節 心の貧しい人々は幸いである
- マタイ5章4節 悲しむ人々は幸いである
- マタイ5章5節 柔和な者は幸いです
- マタイ5章6節 義に飢え渇く人々は幸いである
- マタイ5章7節 憐み深い人々は幸いである
- マタイ5章8節 心の清い人々は幸いである
- マタイ5章9節 平和を実現する人々は幸いである
- マタイ5章10-12節 義のために迫害される人々は幸いである