コンテンツへスキップ 投稿日:2022年3月20日/更新日:2025年1月29日

クリスチャンと仏教の慣習

仏教のお葬式

クリスチャンと仏教の慣習について考えてみましょう。日本のクリスチャン人口は、すべての教派合わせても1%未満と言われています。クリスチャンが仏教葬儀に出席するのは、避けて通れない道です。クリスチャンになっても、家には仏壇があり家族は、毎日仏壇で手を合わせて拝んでいるかもしれません。

1世紀のギリシャ宗教の慣習は、仏教の慣習と非常に似通っています。ギリシャ宗教の偶像礼拝に対して、クリスチャンがどのように対処すべきかが、1コリント8章と10章には書かれています。最初に1コリントの歴史的文化的背景を説明します。

1コリントの手紙 歴史的文化的背景

古代コリントは、紀元前数百年前から栄えた貿易港をもった商業都市でした。アテネから西へ数十キロのところにあります。またコリントは、古代ギリシャでは多くの偶像が造られた都市として、ローマ帝国全土にその名をとどろかせていました。そんな所ですから、偶像礼拝は住民たちの生活の一部であったのです。つまりすべてのコリントの人々は、普段の生活の上において何らかの形で「神々を崇める宗教」に関わるざる得ませんでした。 たとえば、偶像に捧げられた肉が、食用の肉として市場で売られているのです。迷信深いギリシャにとっては、これは聖なる肉です。

コリントのクリスチャンたちも、この肉を買うことができたのです。しかし、彼らはその肉を買うべきか迷ったでしょう。コリントのクリスチャンは、改宗する前に偶像礼拝者だったからです。パウロは、このような偶像礼拝者に宣教したのです。その後、パウロは、手紙によって彼らが直面している数々の問題について知らされ、コリントの教会へ手紙を書きました。

パウロは、コリント教会における偶像礼拝の問題が、争いの種の一つになっていることを知っていたので、最初に警告ともいえる言葉でコリント教会の人たちを諭します。人は自分が知っていると思っている知識によって、おごり高ぶったりしますが、パウロはこのような態度は愚かな者のすることであると言及します。むしろ愛によって人の徳を高めなさい、人の信仰を高めるようなことをしなさい、と言うのです。 コリント教会には偶像に関する限り、2種類のクリスチャンがいたようです。

  1. 偶像は単なる物質に過ぎず、偶像の神など存在しないと認識していたクリスチャン。
  2. 改宗前に偶像礼拝をしていて、改宗後もまだ偶像に対して多少の信仰を持っているクリスチャン。

この1世紀のコリントの教会が偶像礼拝に関して直面していた問題は、日本人クリスチャンが仏教の偶像礼拝に直面する問題と共通点があります。

人間が神を礼拝せず偶像崇拝する愚かさ

クリスチャンはどのように仏教に対処すべきか

クリスチャンと仏教の慣習

「仏壇に手を合わせる位は良いでしょう?」と、あるクリスチャンの方から質問されたことがあります。実際、その方はクリスチャンになられても仏壇に毎日手を合わせていたようです。その方にとってみれば、自分の父母に毎日挨拶をしているような気楽なものだったようです。しかし、そのような行為は神様に喜ばれるものではありません。

わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。・・・偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。1コリント10章16-21節 聖書協会

偶像礼拝は、他の罪と同じように悪霊のわざです。主キリストを信じる人が、悪魔によってもたらされた慣習に従うこと自体、深い罪だと言うべきでしょう。

日本人がクリスチャンになると、多くの問題に直面します。親戚づきあいもその一つです。その場合、仏式のお葬式に出席しなければならない場合もあるでしょう。そんな時、クリスチャンはお葬式で手を合わせ死んだ方の霊に祈るべきでしょうか。

日本の葬式では、一般論ですが、死なれた方は御仏になると言われます。または成仏されるようにと、お葬式が行われます。私が幼少の頃、親類が亡くなった時など、「おばあちゃんの霊を寂しがらせてはいけない」と、一晩中起きていたのを覚えています。亡くなられた方は御仏ですから礼拝の対象になりますから、仏壇に向かって「今日も守ってください」と祈るようです。いくつか認識しておくべきことがあります。

  • 仏教葬儀に出席すること自体に、何ら罪はありません。
  • 仏像また亡くなられた方には、何の力もありません。生ける神以外に、本物の神はいません。偶像は、人間の手によって造られたものに過ぎないのです。
  • その知識をもったクリスチャンは、たとえ仏教葬儀に出席したとしても、亡くなれた方を礼拝することなどしません。それらを礼拝すること自体、悪魔を礼拝すると同じであるからです。

では仏教葬儀に出席した場合、どのように振舞えばいいのでしょうか。

遺族に対してどのように振舞うのか

遺族の方々とどのくらい親しい関係にあるかにもよりますが、遺族の方々に、(決して細かく説明する必要はありませんが)丁寧に自分がクリスチャンであると言いましょう。

焼香するか、しないかは、個々のクリスチャンの判断によって違うと思われます。私の場合は、焼香という行為自体が、象徴的にも亡くなられた方を礼拝する行為のように思えるので焼香はしません。私の友人で敬虔なクリスチャンの方ですが、「焼香することには抵抗がない」と言っていました。人それぞれの良心に基づいて、信仰によって決めるべき問題だと思います。焼香するしないで、クリスチャンがお互いに裁いていたら愚の骨頂です。クリスチャンは焼香しても良いという意見をブログで書いている人。

私の場合、ただ、ご遺体の前で手を合わせ、ご遺族のために主イエス・キリストの名によってお祈りします。ご親族の方々の悲しみを理解して、決して失礼にならないように心がけます。彼らの悲しみを聞いてあげましょう。クリスチャンはクリスチャンではない方のためにも、つまずきになるようなことをしてはいけません。丁寧、親切、愛を持って接することによって伝道・宣教につながります。

むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。1 ペテロ3章15-16節 聖書協会

たとえ主イエス・キリストを信じていなくても、一人一人は神様によって創造された人たちです。神様によって愛されている方々です。だからその人たちを敬います。その例が使徒パウロの宣教にも表れています。パウロは偶像の都市アテネで説教をしました(使徒行伝17章22-31節)。偶像の神々を信じている人たちを軽蔑したでしょうか。またはイスラム過激派が、アフガニスタンの仏像を壊したようなことをしたでしょうか。無論そんな愚かな行為はしませんでした。むしろ、パウロは彼らの宗教深さを認めて、真の神様、生ける神様に立ち返ってくださいと励ましました。

結論 仏教とクリスチャン

クリスチャンがどのように仏教と関わっていくかは、日本にキリスト教が根付かない限り、おそらく一生の命題です。1コリント8章と10章に書かれている原則を基に、クリスチャンが仏教の様々な慣習にどのように対処すべきかを説明しました。ご意見、ご感想などありましたら、コメント欄にお願いします。

「クリスチャンと仏教の慣習」への1件のフィードバック

  1. ウィルスンめぐみ

    私が仏教式のお葬式に参列しなければならなかった時は、お焼香をする番になった時には、焼香台の前に行って、焼香の代わりに、心を込めて、でも声に出さずに『残された方々への慰め』『その場にいるまだ救われていない方々の救い』を祈りました。これに対して、とても丁寧なお礼を言われたことが何度もあります。

    『形だけのことをしている』と思われなかったからではないかと思っています。

    私をクリスチャンだと知っているご家族の場合は、少し早い時間に行かせて頂き、心を込めて、慰めの気持ちを申し上げて、先程のことを先にさせて頂いて退出しました。

    大切なのは、形ではなく、心です。
    もちろん、その場だけではなく、お亡くなりになったお知らせがあった時から、残された方々の慰めと救いを祈ります。

    クリスチャンは、そのお葬式の場に、神様から遣わされて、その場にいる方々に、違う生き方をしている人達がいることを伝える使者なのだと思っています!!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です