キリストの権威と人間の宗教の権威を比較します。宗教の権威って何でしょうか。キリスト教が示す権威も仏教が示す権威も、見た目は似たり寄ったりです。一般信者より豪華でキラキラした服を着てます。頭には何かかぶっているかもしれません。私たちは、そのような権威に惑わされがちです。私たちが信頼するイエス・キリストの権威について考えてみましょう。
人間が作り出す権威
人間は、自分で宗教を作り自分が思うままに礼拝の仕方を決めます。人間の宗教は、自分自身に権威を与えているにすぎません。「これは名物です」と勝手に売っている土産物屋と同じです。
その過程で誰かをリーダーとして祀り上げます。ヒンズー教、仏教、キリスト教、イスラム教であれ、この慣習は変わりません。
その人は、他の人とは違うと見せつけるために、象徴的に豪華な衣装を着ます。私たちは、このような宗教的な権威に惑わされがちですが、その必要はありません。実際、主キリストは、人間がつくる権威について警告を与えています。
権威に関するキリストの戒め
「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」マタイ23章2-10節 聖書協会
人間が作る権威には、常に序列があります。ピラミッド型の組織が出来るのです。カトリックもプロテスタントもその意味ではあまり変わりがないでしょう。きわどい所でみんな罪を犯しているのです。それでも憐れみ深い神は、諸教会を祝福しています。
私たち人間は、そのような人間が作った宗教的権威に驚き、「すごい!厳かな雰囲気がある。教会堂が豪華だ」と妙に感心してしまいます。
イエス・キリストの権威
イエス・キリストの権威はどこにあるのでしょうか。私たちが信じるに値する方でしょうか。イエス・キリストは、父なる神から遣わされたと主張します。さらに、「自分がどこから来てどこへいくか知っている。しかし、あなたたちは知らない」とも言います。厳密に言えば、イエス・キリストしか真実を知らないのです。誰も天に上った人はいません。ところがイエス・キリストは、自分は天から遣わされ、父なる神の御言葉を話していると、繰り返し主張します。
私は、自分がどこで生まれ、どこで育ったか知っています。それを他の人に伝えたらどうでしょうか。疑い深い人でも、私の戸籍謄本を見せれば信じてくれるのでしょう。しかし、天には、私たちが見える戸籍謄本はありません。イエス・キリストがどこから来たのかは、実際の所、主キリストしか知り得ません。その言葉を信じるか否かは、私たち自身の心にかかっているのです。
もしキリストが言っていることが嘘偽りであれば、聖書はただの置物にすべきでしょう。しかし、もしキリストが言っていることが真実であれば、私たちはどうすればいいのでしょうか。少し極端な言い方に聞こえるかもしれませんが、生きるか死ぬかの問題でもあります。
主キリストは、クリスチャンが崇める唯一の先生
クリスチャンにとって、人生の師、先生、教師は一人だけです。主イエス・キリストだけです。後はみんな兄弟姉妹だと言われています。本来のキリスト教、つまりキリストの教えには、人間が作る宗教のようにクリスチャンの間に序列を作ることなどありえません。ピラミッド型の組織などあり得ないのです。神の御前では、私たちはみんな「ドングリの背比べ」です。そんな中で誰が一番か?キリスト教の世界では議論される時があります。そんな事は決して神の御心ではありません。
どんなに有名な先生でも、偉いと言われている先生でも、罪人でありただの人間です。名も知れぬクリスチャンも同じです。本物のクリスチャンは、いつも主キリストを見上げて、常に主キリストから目を離さないようにします。なぜなら、この方だけが人生の師であり、人生の先生だからです。すべてのクリスチャンは、牧師であろうと聖書学者であろうと、どんな要職に教会内でついていようと、すべて兄弟姉妹に過ぎません。
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。へブルの手紙12章1-3節 聖書協会
主キリストが「 信仰の創始者また完成者」であるとは、どんな意味でしょう。主は、私たちに信仰を教えています。つまり、どのように天の神様を愛すべきか、その意味も教えています。また、どのように隣人を愛すべきかも教えています。主イエス様から目を離さずに、常に学び、主のイエス様の御心を求めて生きていくのです。これがクリスチャンのIDです。
読者の皆様が、主イエス様とともに歩み霊的に満たされんこと、心よりお祈り申し上げます。次のページも参考に。