コンテンツへスキップ 投稿日:2022年8月9日/更新日:2023年5月7日

エペソ4章1-16節。主イエスにある一致

主イエス・キリストにある一致

エペソ人への手紙4章1-16節を解説。主イエス・キリストにある一致は、どのように成就されるのでしょうか。クリスチャンの一致の意味は何でしょうか。一致は可能なのでしょうか。この箇所は、1節―6節と7節―16節の2つの部分に分けられます。パウロは、1節-6節でキリスト者の一致がどのように成就されるかを語っています。7節-16節で、教会内の多様性がどのように一致に貢献しているかを解き明かししています。

神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。…そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

クリスチャンの一致の根源

主イエス・キリストにある一致

主イエス様は十字架にかけられる前に、弟子たちの一致のために祈っています(ヨハネ17・1ー23)。12人の弟子たちの一致だけでなく、彼らの言葉を信じてキリスト者になった人たちの一致にためにも祈っているのです。キリスト教のすべての教派、あるいはクリスチャンと呼ばれるすべての人々が、主イエス・キリストにあって一致するように、主イエス様は祈っています。

三位一体の神の性質に、クリスチャンの一致の根源があります。父なる神と子であるイエス・キリストが一つであるように、クリスチャンも一つになるように神様は望んでいます。現代のクリスチャンも、この一致のために、また所属している教会内の一致のためにも、祈祷を捧げるべきではないでしょうか。

一致のための態度と一致を壊す態度

パウロは「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(4・2―3)と奨励しています。謙遜、柔和、寛容、忍耐、平和の態度がなければ、クリスチャンの一致はありえません。

神様は、人間のおごり高ぶりを嫌う方です。おごり高ぶりがあるところには、必ず分派・分裂があります。その端的な例がコリントの教会でしょう。誰が一番賢いのか、霊的に優れているのかを言い争っていました。また人の徳になるような行いではなく、躓きになるようなことをお互いにしていたのです。キリストの体である教会を壊していたのです。

クリスチャンの一致はどのように成されるのか

パウロはコリントの教会に「どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください」と書いていますが(1コリント1・10)、教会内に意見の違いをなくしなさいという意味でしょうか。人間の顔や体が違うように、意見の相違があっても何ら問題はありません。問題は、その意見の相違にどのように対処するかです。

パウロは、ローマ14章―15章においてその対処法を教えています。ある人は、特定の日に宗教的な意味があると信じているかもしれません。他の人は信じていないと想像してみてください。しかし、お互いを裁きあって争ってはいけません。そのような問題は、とるに足りないことだからです。成長したクリスチャンは、ある問題が重要な問題であるか否かを判断しなければなりません(ローマ14―15)。

クリスチャンの一致は、信仰の一致、教理の一致か

クリスチャンの一致を「信仰の一致または教理の一致」と考える人がいますが、実はそこには微妙な線引きが必要です。パウロは、「体は一つ、霊は一つです。…主は一人、信仰は一つ、バプテスマは一つ、…すべてのものの父である神は…すべてのものの内におられます」と書いています。一致のための必要な教理と考えるべきでしょうか。無論、極めて重要な教理であり、聖書教理の根幹となすものであることに異論はありません。

しかし、上記の聖句を理解するためには、エペソ人への手紙の背景である一世紀の異教徒たちの宗教観を考える必要があります。異教徒たちは、様々な神々、霊を信じて、宗教的に寛大、寛容な態度を持っていました。また同時に、異教徒たちはギリシャ哲学(現代哲学とは異なり宗教的な要素が多く含まれていた)に精通していて、多くの場合、哲学者たちと師弟関係、主従関係を結んでいた点も忘れてはなりません。ギリシャ宗教と哲学がうまく融合して、お互いを許容する社会が形成されていたのです。これらの人々が、イエス・キリストを信じてキリスト者になったのです。世界観が変わらなければなりません。

クリスチャンの一致を目指すために

クリスチャンの一致には、信仰と教理の一致が含まれますが、律法的に考えるべきではありません。たとえ信仰と教理の一致があったとしても、謙遜、柔和、寛容、忍耐、平和の態度がなければ、その一致は無意味なものです。父なる神と子なるイエス・キリストの一致を手本にしなければ、やはりクリスチャンの一致は成り立ちません。

一致を求める祈り、義を求める祈り、平和を求める祈りに、父なる神様は応えてくださいます。クリスチャンの一致をいくら声高に主張しても、自らが神に委ねて祈らなければ、また謙遜、柔和、寛容、忍耐の態度がなければ意味がありません。逆に、明らかな真実を認識してみましょう。その真実とは、主イエス・キリストが本当に宿った者だけに、主イエス・キリストにある一致は成就するということです。

キリストの体における一致は、ただ単に同じ信仰をもち、教理を信じているだけで成就されるのでしょうか。決してそうではありません。違った賜物を神から頂いているクリスチャンが、足りない部分をお互いに補ってこそ、キリストの体は神の御心に沿って成長していき、一致して働くことができます。

伝道者・牧師一人の賜物に頼っている教会は、その人以上には成長できません。言うまでもなく、伝道者・牧師もただの人間に過ぎないのです。罪人です。過ちも誤りもあります。盲目的な思い込みもあるかもしれません。一人の人間に頼らない共同体、キリストの体を主イエス・キリストは建ててくださいました。実は、ここに神のわざの秘儀があるのではないでしょうか。

結論

キリスト者の人生の先生は、主イエス・キリスト以外にいません。役割の違いこそあれ、クリスチャンは皆兄弟姉妹であると主イエス様は戒めています。教会のメンバーが助け合い愛し合い支えあう所には、神の御国が宿り神の御心が行なわれ、主キリストにある一致も成就されるのではないでしょうか。

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