コンテンツへスキップ 投稿日:2022年3月3日/更新日:2023年5月7日

エペソの手紙の時代背景と年代

エペソの手紙の時代背景と年代を説明します。時代背景を知るのは、エペソの手紙を正しく理解するうえで、非常に大切です。エペソの手紙の著者と受け手を、先にお読みください。このページでは、特に歴史的文化的背景を説明します。

エペソの手紙の時代背景

パウロは、獄中からエペソの手紙を書きました(3章1節、4章1節、6章20節)。さらに6章21節を読むと、パウロはこの手紙の配達人としてテキコを遣わして、受取人に届けさせているのがわかります。テキコは、おそらく同時期にコロサイの手紙をコロサイ教会に届けています(コロサイ4章7節)。小アジア[mfn]現在のトルコ西部に位置する [/mfn] 出身のテキコ(使徒20・4)は、小アジアの地理に詳しかったと思われます。そのテキコが、小アジアの都市であったエペソとコロサイの教会[mfn]エペソの手紙とコロサイの手紙が同時期に書かれているとすれば、二つの手紙の内容が似ているのは不思議ではない [/mfn]に手紙を届けるのは至極当然でしょう。

エペソの手紙を書いた後、パウロはテモテの手紙を書きました。そのテモテの手紙には(2テモテ4章12節)、テキコをエペソに遣わしたと書かれています。エペソの手紙を届けさせた時を指しているのかもしれません。

パウロの獄中

パウロはカイザリアで二年間(使徒24章27節)、ローマでおそらく二年間(使徒28章16節‐30節)獄中にいました。どちらの獄中期間に、エペソの手紙は書かれたのでしょうか。パウロは、ローマでは比較的自由が認められていました(使徒28章30節-31節)。このため、外部の人間と通信を保つのは容易であったと考えられます。この点を理由には、「パウロはローマにおいてエペソ、コロサイ、ピレモンを書いた」とほとんどの学者の間では推測されています。

限られた情報で歴史的な経緯を推測するのは困難ですが、おそらくコロサイ、ピレモン、エペソの手紙は、次のような状況で書かれたと思われます。

  • ローマで獄中であったパウロは、オネシモに出会い福音を伝えました。
  • この時、パウロはオネシモの故郷であるコロサイにある教会の問題を聞いたのです。
  • そしてオネシモとテキコを手紙と共にコロサイ教会に送りました。(コロサイ4章7節-9節)。
  • この後、パウロは、オネシモの主人であるピレモンにオネシモを送り返すために、ピレモンの手紙を書きました。
  • パウロは、小アジアにある多くの異邦人教会が直面する諸問題には精通していました。それらの問題を総括する意味で、「神の計画における教会とクリスチャン生活」というテーマでエペソの手紙を書いたのです。
  • パウロは、この手紙に「エペソ」とは書きませんでしたが、後に受け取った人々は小アジアでもっとも中心的な都市であったエペソを受取人の代表のように書いたのかもしれません。この理由で、一番古い写本にはエペソとは書かれてはないのではないでしょうか。

エペソの手紙が書かれた年代

結果として、伝統的に「エペソの手紙」と呼ばれるようになったと思われます。パウロが、ローマに獄中していた時期を59年から61年とすると、パウロは61年にエペソの手紙を書いたと考えられます。

一般的には、エペソの手紙を理解するうえで、その歴史的背景はあまり重要視されません。というのも、ある特定の教会に書かれている手紙ではなく、巡回の手紙のような性質があるからです。しかし、少なくとも1世紀における小アジアの異邦人気質については、エペソの手紙を理解するうえで重要であると強調すべきです。この注解では、異邦人文化が関連する聖句の解説で、詳しく述べていくつもりです。

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