「神の愛ー主イエス様は私さえも愛して下さる」というタイトルで、東京都在住、70歳女性、医師の方が投稿して下さいました。
私は子供のころ、津軽地方の田舎で、両親は仕事の都合で少し離れた町におりましたので、曾祖母と祖父、祖母の3人の老人に育てられました。曾おばあさんはいわゆる信心深い人だったので、毎朝のように仏壇の前でお経を上げるのですが、私も隣に座っているうちにおぼえてしまいました。「この子は賢い子だ。」と褒められるので気分を良くして一緒にお経を唱えるようになりました。いまだにその地方は仏教色一色の所です。三つ子の魂百まで・・・といいますが、いまだにお経はとなえられます。こんな、私がクリスチャンになったなんて!奇跡ですよね。
大学に進学して
大学は医学部に進みました。そして、夫になった人に出会いました。彼がクリスチャンだということは付き合って2年くらいして知りました。聖書やイエス様など、とても都会の匂いがして興味を引きました。だって、おばあさんやお爺さんを通してのお経とはえらいちがいです。彼の下宿へ彼が所属する教会の伝道者の方が見えて、少しお話をしてくれると言うことで私も行ってみました。お話の内容はあまり覚えていませんが、その時質問をしました。
「私も聖書を勉強すればクリスチャンになれますか?」
「それは無理でしょうね。」
がっかりしたと思いますか?“いいえ”です。むしろ、「この人は、いい加減な慰めは言わないんだ。へぇ・・・」と思いました。信用してもいい人、本当のことを言ってくれる人、という印象をもちました。(実は、その方は私ごとき者がこんな事を言うなんてとんでもない、立派な方だったのですが・・・)
結婚してから
その後、クリスチャンキャンプに連れて行ってもらったり、家庭集会にも一度一緒に行きましたが、めずらしい経験と言う程度の感じでした。ところが、信仰はさておいて、お互い結婚を考えるようになりました。私はクリスチャンにはなれないといわれているのに、彼は所属教会の一員として活動したいのです。私としては、彼の妻として信仰を持たないままというのは困るし、子供が生まれても信仰について母として伝えてあげられないし、かなり悩みましたが、彼は今のままで良いと言うのです。「僕のバックボーンとして僕を支えているのは信仰であって、その僕を信じて結婚してくれるのならそのままでいいよ。」
清水の舞台から飛び降りる気持ちってこんなものでしょうか。彼と結婚してしまいました。始めの何年かは何事も無く過ぎましたが、子供が3人授かり、教会学校へ行くようになりました。子供が教会に行っているのですから夫も私も礼拝に出席します。でも、納得できない事ばかりです。そのうちに夫は教会の役員になりました。役員の妻がノンクリスチャン、具合が悪いですよね。でもどうしてもイエスさまは受け入れられません。
子供のために?
私の体に馴染まないのです。お経が身に染みていたのでしょうか。日曜日の夜はいつも夫に質問攻め、というよりは「いやだ、いやだ」の連呼でした。かなり緊張した状態だったとおもいます。その緊張がはらりとほぐれた時がありました。伝道会の時に別の教会の伝道者の先生が私に声をかけて下さいました。
「子供さんのために、ひとつ、洗礼を受けてみたらどうでしょう。」
「えっ、子供のためですか?私なんてまだまだなのに・・・」
「完璧になってから、と思う人が多いんですよ。でも、赤ちゃんからスタートでいいんですがねえ。」
“子供のため”、“赤ちゃんからスタート”、それもありなんだ!くるりと反対方向へ向かされたような感じがしました。それからも信じたいけれども信じられない、もどかしい何年か後のある日の礼拝のあと、他教会の方がご自身の体験をお話していました。ご主人を亡くされ、大変辛く苦しい時に、涙を流しながら祈っていると、体が熱くなり、イエス様が自分の側に立たれているのを感じた、というのです。その頃、週報の表紙に「重荷を負っている者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11:28)という有名な聖句がのっていました。体験を話しておられる方のお話をぼんやり聞きながら、「辛い目に会わないとイエス様には会えないんだろうか。
バプテスマを受けて
私は家族にも恵まれ、経済的にも不足は無い、やりがいのある仕事も持っている。今までも重荷と言う重荷はなかった。信仰は持てないのかな。」と思った時、私の後ろにイエス様をはっきり感じました。めったに涙をこぼさない私が涙ぐんでいました。いつも私の側にいてくださったのに気づかなかっただけでした。もうすでに私の重荷を一緒に背負って下さっていたのかな、と思いました。私たちの、求める祈りがあれば、イエス様はいつでもスタンバイOKなのだと思います。この頑固な私でさえ捕らえていただき、1986年5月洗礼を受けました。
参照記事 あなたは高価で尊い!イザヤ43章4節
神の愛を受けて、クリスチャンとして信仰生活をしています
今、クリスチャンとして生まれたての赤ちゃんから、ハイハイする赤ちゃんくらいになれたでしょうか。神様の家族の端に加えていただき、幸せな毎日を過ごしています。最後に、「あなたはクリスチャンになれません。」と言われた本当の意味は、聖書を学ぶだけではなく、祈りが必要だとおっしゃったのだと思います。その方は天国にいらっしゃるので確かめられませんが・・・。私自身の、私が所属する教会の伝道者の、教会員の皆さんの、その祈りに支えられて信仰を持つことが出来たと思います。
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