テモテへの手紙第二2章

テモテへの手紙第二2章。伝道者の任務を遂行せよ

テモテへの手紙第二2章が、21世紀のクリスチャンに語りかけています。立川キリストの教会の福嶋正剛伝道者が、わかりやすく解説してくださいます。

テモテへの手紙第二2章1~13節  困難に負けてはならない

1章15~18節には、パウロの手本に引き続き、フゲロとヘルモゲネの悪い例とオネシポロの良い例についての記述がある。パウロが投獄されてから、恐らくそのことが理由で、多くの信者はパウロを見捨ててしまった(1:15、4:16)。フゲロとヘルモゲネは、テモテもよく知っている教会のリーダーであったのだろう。テモテは、彼らの二の舞を踏んではならず、むしろ、エペソにおける同労者であったオネシポロの良き手本にならうべきであった。オネシポロの家族のためにパウロは祈っているが、あるいは、オネシポロは、ローマにおいてパウロに仕えている間に何らかの理由で亡くなってしまったのかもしれない。しかし、「主にあって死ぬ者は幸いである。」(黙示録14:13)。主にあって死ぬ唯一の方法は、主にあって生きていることである。

1節の「そこで」は、1章におけるパウロの教えを指している。「強くなりなさい」とあるが、自分の力でということではない。神の恵みによって、絶えず強められていなさいということである。パウロの力の源は主であり、主の恵みであった(2テモテ4:17、1コリント15:10、ピリピ4:13)。この資源を持たなければ、伝道者はその任務を果たすことはできない。福音宣教は自分の力で行うものではない。また、自分ひとりで行うものでもない。教える力のある忠実な人々に委ねて行くことによって福音は前進し続けることができる。正に、伝道学院は、そのような働き人の育成のためにある。

3節~6節で、パウロは、兵士、競技者、農夫の例を挙げてテモテを励ましている。この三者に共通するのは、苦しみである。兵士は、司令官に従って、苦しみに耐えなくてはならない。競技者は規定に従って苦しみに耐える。農夫も畑の重労働に耐えなければならない。三者にもう一つ共通することは、苦しみの後の報いである。「戦いの苦しみの向こうには勝利があり、競技の苦しみの向こうには栄冠があり、辛い畑仕事のむこうには収穫がある。」(バレット)

また、テモテは常に、主イエスのことを思っていなければならなかった。「ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリスト」は、歴史をも、死の世界をも支配する神の力を思い起こさせる。主イエス・キリストの十字架と復活こそ伝道者の任務の根拠であり道である。パウロは自分が牢につながっていても、神の言葉が広がっていっていることを喜び、それによって、救われる人々のために今の苦しみを耐え忍んでいる。11~13節の「信頼すべきことば」は、当時の讃美歌か格言であったのかも知れない。その内容は、最後まで主に忠実であるようにという励ましである。

テモテへの手紙第二2章14~26節 偽教師たちの妨害に屈してはならない

1テモテの手紙で取上げられた、偽教師の問題は引き続きエペソの教会を悩ませていたようである。パウロはテモテのために、また教会のために二重の配慮をもって注意を与えている。「これらのこと」は、11~13節のことばを指しているようである。

神の言葉は、人々を救い、健全にするために与えられている。しかし、偽教師たちはそれを論争のために用いることによって人々を滅ぼしていた。パウロは、この手紙を読む教会の前で、偽教師たちの論争を止めさせるように命じられている。また、テモテ自身は、真理である神の御言葉を正しく教えることができるより熟練した者となるように努力し続けなさいと命じている。そのためにテモテは、自分を神に捧げなくてはならなかった。みことばをマスターしようとする者よりも、みことばにマスターされる者によって神のメッセージは語られるということではないか。みことばも使い方によっては、人々を滅ぼす癌のようになってしまう。具体的に、ヒメナオやピレトは、真理に反し、死後の復活を否定することによって、人々の信仰をくつがえしていた。間違った教えは、神を滅ぼすことはできないが、それを受け入れる人々を滅ぼすことはできる。うそは、現実を変えることはできないが、そのうそを信じた人に危害を加えることはできる。この世には、大きなうそがあたかも現実のように君臨している。サタンは、神を滅ぼすことはできないが、私たちを神から引き離すことによって、滅ぼすことはできる。

しかし、教会の土台は、人間の業ではなく、神御自身である。神の教会を構成する人々は、自分を神に捧げた人々、また不義に背を向けた人々である。20~21節の教えは、1コリント12章の賜物に関する教えとは違う。誰であっても、自分を神に捧げ、罪に背を向ける者は、神のみわざのために用いられるということである。またどんなに有能な者であっても、自分を神に捧げないなら、神のお役には立たないということである。

パウロは、テモテに、情欲や争いに走りがちな若い情熱を正しい方向に向けるように命じている。「きよい心で主を呼び求める人々とともに」ということは、信仰を守るためには、励まし合い、助け合うことのできる兄弟姉妹たちが必要であるということである。「青年の集い」や同じような目的で存在する様々な集会がますます主の御わざのために用いられるように祈りたい。

パウロは、テモテが論争をせずに、間違った教えに惑わされているクリスチャンを教え続けるように命じている。悔い改めをもたらすのは神御自身である。教会の本当の敵は、偽教師たちや間違った教えの背後に姿を潜めているサタンであり、その敵を滅ぼすことができるのは神だけである。

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