コンテンツへスキップ 投稿日:2022年11月13日/更新日:2023年5月5日

望郷の念に駆られる

私たち人間は誰でも望郷の念に駆られるようです。望郷の念とは、一般的に故郷を懐かしく思う心と解釈されます。この記事では、人間が誰も持っている神への望郷の念について考えてみましょう。

貴方の人生で一番大切なものは?

自分が一番大切なものは何でしょうか。自分の心の奥底にあるものは何でしょうか。この人生で自分が本当に望んでいるものは?と考えるとあまり考えつかないかもしれません。

プロ野球の選手が命をかけてやっているものであっても、その人から野球をとったら何が残るのでしょうか。人は何かを媒体に生きがいを見つけますが、それがもし無くなってしまったら何が残るのでしょうか。子供の成長が生きがいの人は、子供がいなくなったら生きがいをなくしてしまうのでしょうか。

誰でもいずれ死に向き合う時がきます。でも死んだら何が残るのでしょうか。人が死んで、後世の人々が葬儀の時にはその人の死を泣き惜しみますが、葬儀の翌日には何事もなかったかのように世の中は忙しく動いているのです。有名人、名声を残した政治家も科学者も、過去の人になっていくのです。人の名声は、長い年月を経て忘れられていきます。

それでも時折、何十周年記念などと銘打って、その有名人の功績をたたえたりしますが、それでも過去の歴史として残されるだけです。どんな場合においても、主役は現在活躍している人たちです。伝道者の書(コヘレトの言葉)で、著者は次のようにこの世の業績について語っています。

わたしは心にこう言ってみた。「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す。

コヘレトの言葉1章16節—18節 聖書協会

人類の歴史に残すようなことをやり遂げたとしても、風を追うようなものですべてが空しいことである、とコヘレトの言葉全体で主張されています。この概念は、平家物語の「祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり」にも通じるものがあります。人間は、なぜ文化の壁や歴史の壁を越えて、「人生が空しい」と感じるのでしょうか。それは、創造主なる神様から離れているからです。

創造主なる神への望郷の思い

創造主によって創造された人間は、望郷という形で神を思い起こします。人それぞれの脳裏にある神の概念が、時々舞い戻ってきます。この記事を読んでいる貴方の心の底に、神への望郷が宿っているのです。


良心がまったく麻痺していない限り、人は正しい事、善い事をしたいと思います。(いつもそれが出来るとは限りませんが・・・。そこに人間の性があります。)正しい事、善い事をしたいという思いは、神への望郷の現われなのです。貴方が本当に心の奥底が望んでいるのは、ただ単に幸せになることでしょうか。マイホームを持つことでもないと私は思います。また子供を大学に行かせ幸せにさせることでもないでしょう。(もちろん重要なことですけど。)

むしろ、心の底から湧き出てきる永遠の喜びを望んでいるのではないでしょうか。自分の心の奥底にあるもの、それは貴方自身が忘れてしまった神への思いだと私は思います。もしそうでなければ、それは貴方自身が気づいていないに過ぎないでしょう。

この望郷の思い、真実なる神への思いは、私たちの生活でいろいろな形で表現されます。神社仏閣の宗教的な儀式はその一つです。主義主張の違いこそあれ、正義が行われるべきだという考えや行動も、神様を求める心があるからです。

人間の本来持っている本質から言えば、人間は創造主なる、真実なる神を礼拝するように、正義を真実なる神に求めるように造られているのです。真実なる神はどのようなお方かを、私たちにイエス・キリストは説いています。神を礼拝する意味を、イエス・キリストは身をもって人間たちに説明してくださいました。今一度、自分を振り返り自分の心の奥底にあるものを吟味してみませんか。そして、イエス・キリストに向き合ってみましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

モバイルバージョンを終了