日本と戦争について考えてみます。日本人の戦争に関する倫理観について考えてみましょう。旧約聖書に記録されている戦争と合わせて、クリスチャンの説明責任を問いかけます。
8月15日は終戦記念日です。クリスチャンを含めた多くの方々が、人間の知恵や力で戦争をなくせると考えています。多くの場所で平和が叫ばれます。しかし、罪人であるわたしたち人間が、この地上に住んでいる以上、争いごとはなくならないし、戦争がなくなることはありません。
1.戦争反対だけど、戦争から恩恵を受けてもOKの倫理観

戦後世代が過半数を占める日本社会では、戦争についてどう考えられているのでしょうか。戦後、軍事面ではアメリカにおんぶに抱っこ状態を続けてきた日本人は、戦争についてどう向き合おうとしているのでしょうか。
もう60年も前の話ですが、日本は朝鮮戦争の時には軍事景気、特需で恩恵を受けましたが、それでも多くの日本人は戦争には反対を叫び続けてきました。日本人には、今でもこの二重構造的倫理観 があります。 ( 二重構造的倫理観はわたしの造語です。国語的に正しいか分かりません。日本人の倫理観に、本音と建前があるという意味だけではありません。一方でAを賛成しながら、同時に倫理的に全く反対のBも賛成できるという不思議な倫理観です。)
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2.戦争には関わりたくない傍観者でいたい倫理観
戦争は確かに悲惨であり無残なものです。10年前くらいに政府は、集団的自衛権を閣議決定しました。それを声高に反対している人たちがいました。共産党、社民党、その他の政党が、政治的戦略入り乱れて反対していました。もちろん反対者の中には、多くのクリスチャンもいました。
しかし、日本人は結局の所、戦争には関わりたくないのが本音でしょう。傍観者でいたいのでしょう。アメリカには日米安保条約で守ってもらい、でも実際に戦争には関わりたくないのが、日本人の本音です。「戦争をするのはアメリカ人でいい!日本人は巻き込まれてはならない!」という二重構造的な議論が、まかり通るのが日本という社会です。
3.戦争に間接的に関わるならOKの倫理観
直接、戦争に関与はしないけど、間接的に戦争に関与しているのです。殺人と言う犯罪に例えてみましょう。「あなたは、自衛のために殺し屋を雇っています。しかし、この殺し屋は他の人からも依頼を受ける時があります。そんな時にもあなたは、この殺し屋の旅先での衣食住の旅費を工面しなければなりません、これが契約ですから。」殺人罪には問われないかもしれませんが、それなりの罪に問われるでしょう。
「我々を守るために金を出す。実際の戦争はアメリカにやらせろ。我々は戦争に関わりたくない。戦争の援助もしたくない。ただ我々だけを守っていればいいのだ」だけで戦争反対するのであれば、あまりに自己中心的とはいえないでしょうか。戦争の敵も味方も人間は、みんな神によって創造され愛されています。
結論 日本人クリスチャンとして、戦争について答えるべき説明責任
戦争に関して日本人の特殊な倫理観、ダブルスタンダード的な道徳観を検証しました。少し突っ込んだ提言をしました。世の中がどんなに変わろうとも、人間が行う戦争は悪です。悪魔によってだまされた人間のわざです。私たちの神である主イエス様が、日本人に悔い改めの心を与えてくださるようにお祈りしています。
読者の皆様の上に、主キリストの尊い愛が注がれますように、心よりお祈り申し上げます。
外部リンク 聖書は戦争について何と言っていますか?