キリスト教の礼拝の場所はどこでしょうか。ローマ法王がいるバチカンでしょうか。キリスト教の礼拝は、クリスチャンではない人のための旅行の一部の観光のように捉えられているようです。教会の「ミサ」「日曜礼拝」初心者ガイド これは大きな誤解です。
この記事では、真の神を礼拝する意味について考えます。主イエス・キリストは、場所を選ばずどこでも神を礼拝する意味を説明しています(ヨハネ4章16-26節)。しかし、その当時の人々にとては奇想天外な言葉です。ユダヤ人たちは、エルサレムを聖地と考え、遠方から来て礼拝を捧げていました。主イエス様は、そのような常識を覆したのです。
イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」ヨハネ4章16-26節 聖書協会
礼拝すべき場所
サマリヤの人々は、民族的にいえばユダヤ人と異邦人のハーフです。しかし、彼らは創造主なる神様を信じサマリヤで礼拝していました。ユダヤ教の聖地エルサレムでは礼拝が許されていなかったからです。
ところがサマリヤの山でもなくエルサレムでもないところで、神様を礼拝する時がくるというのです。主イエス様は、場所を選ばず誰もがいつでも礼拝できると言ったのです。これは衝撃的な預言です。サマリヤの女性もビックリしたに違いありません。本物のキリスト教に聖地のような特別な場所はありません。
神は霊である。霊と真理によって礼拝する
創造主なる神様は、霊なるお方です。物理的な建物内に収められる方ではありません。一方は、私たち人間は、神様によって神様に似せられた者として創造されました。肉体の命をあずかっていますが、同時に霊的な存在です。
霊的な存在である人間は、聖霊なる神様を受ける器なのです。神様を礼拝するために、クリスチャンは聖霊と真理が与えられました。この聖霊と真理によって、クリスチャンはどこでもいつでも、神様を礼拝できるのです。ユダヤ教の聖地エルサレムやカトリック宗教の聖地ローマに行く必要もありません。主イエス様が、聖霊としていつもクリスチャンに宿っているからです。
このサマリヤの女性も、メシアが来ることを待ち望んでいました。すべての真理を教えてくれるキリストであるメシアが、いつかサマリヤ人を含めたイスラエルの国を復興させるに違いないと信じていたのです。
この女性の期待と信仰に主イエス様は応えます。「わたしがキリストである」と。これも衝撃的な言葉です。この時こそ、飛び上がるほどビックリしたでしょう。自分の過去をすべて言い当てたこの方こそ、メシアでありキリストである、と信じたのです。
21世紀に神を礼拝する特権
今、私たちは主イエス・キリストをこの目で見ることはできません。しかし、この方は天にいらしてすべてを支配しています。地上にいた時と同じように、私たち人間、一人一人の過去を知っているお方です。主イエス様は、今も私たちに呼びかけています。「わたしを信じ、ついてきなさい」と。主イエス・キリストは、すべての文化・時代を超えて、永遠の真理を語っています。
礼拝は、観光ツアーの一部に入るようなものではありません。また美術館や博物館のように入場料を払って鑑賞するものでもありません。礼拝によって、天にいらっしゃる私たち人間の創造主なる神を、褒めたたえるのです。
イエス・キリストを信じる人は、神の子供として受け入れられ、神を主イエスの名によって礼拝できる特権が与えられています。日々、どこでも礼拝できるのです。朝起きて祈り神を礼拝します。しかし同時に、主イエス様はキリストを信じる人々の共同体である教会を建ててださいました。キリスト者が支えあう共同体を創ってくださったのです。教会での礼拝も神の御心の一部であることを忘れないようにしましょう。