私たちの人生において、見えると思っていても、実際は見えてない時があるのではないでしょうか。何をすべきかもわかっている、この世の中の有様もハッキリわかっていると、確信を持っている時こそ、改めて自己吟味をすべきではないでしょうか。主イエス・キリストの言葉から、自分の信仰を検証してみましょう。
イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」ヨハネ9章39-41節 聖書協会
見えていると思っていたパリサイ人たち
霊的に盲目になっていたパリサイ人たちに、主イエス・キリストは「あなたがたは父なる悪魔から出た者である」と言います。彼らは完全に悪魔によってだまされていたのです。ですから、霊的に真理を見えてなくても、見えていると考えていました。
実は、現代に生きるクリスチャンにも、同じようなことが起こり得ます。聖書の権威と思われる学者たちが、聖書の解釈において論争しているのを見ることがあります。聖書をそれだけ知っていれば、霊的にも成長しているのだろうと思いがちですが、悪魔は学者たちのプライドをくすぐり巧妙にだますのです。
参照記事 信仰とは何か
見えてませんと信仰告白する
主イエス・キリストは私たちを裁くために、天から降りてきたのではありません。むしろ見えない人が見えるようになるために、神様の真理を教えるために人と成られました。罪人である私たち人間は、主イエス様の御言葉を聞くことなしには霊的に盲目です。見えていません。
クリスチャンになって「見えている。他の人よりも真理を知ってる」と、おごり高ぶったらどうなるでしょうか。その時点で、主イエス・キリストが教える真理が見えなくなっているのです。
むしろ、「自分は見えていない。まだまだ、主イエス様が教える真理を理解していない。実践も出来ていない」と思っている位がちょうどいいのではないでしょうか。
参照記事
主イエス・キリストが与える一筋の光
主イエス・キリストが与える人過ぎの光に、いつも感謝をしましょう。人間は、自分自身の力で光を放つことはできません。主イエス様の光によって、霊的な目が開かれるのです。もし幹である主イエス様から離れたら、枝であるクリスチャンは何も実を結ぶことはできません。
自問自答してみましょう。「今、自分は霊的にどこにいるのだろうか」と。常に主イエス様の光が照らし続けてくださるように、心を開き「見えていません。主よ、私の心に光を与えてください」と今日も祈りましょう。