父の家
御子のご降誕のとき天で「どよめき」が起こった、と表現する者がいたと聞いた。「どよめいた」と描かれた驚きに惹かれます。そのご降誕後の様子が記録されます。主イエスが十二歳になった頃、いつものようにエルサレム神殿に上ります。十二歳と言えばなによりも遊びたい頃です。遊びにのめり込んでも不思議ではない年ごろです。
自我に目覚め、反抗期が頭を持ち上げます。習い事などは強制力で、ときに親同伴で勧めます。信仰の導きは本人の自由意志にまかせます。主イエス・キリストにお仕えし、その道を歩もうと願う家庭で、この国の状況では闘いが続きます。両親の普段着の信仰が注視されます。後に続く者はなかなか見えません。バトンをつなぐ者たちがいつ現れるのか不明です。
イエスは十二歳で慣習に従い、大人の仲間入りの備えで両親とエルサレム神殿に向かいます。予定の事柄を終え帰路につきます。しばらく下った頃、両親は少年イエスの不在に気付きます。少年イエスは神殿に留まります。親から離れるのは危険です。両親は慌て親戚、知人の間を巡って探します。見つけられずエルサレムに戻ります。子どもが迷子になったのではなく、両親が迷っています。少年イエスが神殿にいます。
両親は姿を見て安心したではありません。驚くのです。母は少年イエスに語りかけます。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」少年イエスは応え、「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」両親に、どうして捜しますか、わたしが必ず自分の父の家にいることを、知らなかったのですか。
御子の家
「家」の言葉は原語にはありません。直訳すると父の事柄とか業がなされるところです。父の業が行われる場を意訳し「家」とします。育ての父ヨセフを前に、自分の天の父なる場、神殿を語ります。少年イエスの家族は大家族で、父はヨセフです。しかし、少年イエスの家は、父なる神の御業が行われるエルサレムの神殿です。両親は少年イエスがどのように家族とされたか知っていた筈です。かつて聞いた神の御告げが希薄化したでしょうか。
天から降られたとき、どよめきが起こったと冒頭書きました。父なる神のもとを去ったとき、天がどよめいたのです。その御父にお会いする場が神殿であり、そこが父なる神の地上の家です。少年イエスにとり両親に連れられて、この家に来ることは、特別だったことは想像できます。帰るべき場所に帰るのです。地上で天の故郷に帰る機会です。両親に、必ず、とことわって返事していることからしても、神殿は少年イエスの地上のホームです。
神殿に上るたびそこで繰り広げられている犠牲の様子を見たでしょう。おびただしい犠牲、流される血、焼かれる煙と臭気を感じての神殿体験です。その有様と少年イエスの将来が重なることをだれが知っていたでしょうか。父なる神の御業がやがて少年の成長とともに、人類の贖いのために犠牲となることをだれが知っていたでしょうか。預言を聞いた民ですが、イエスがキリストです、と告白するまでは時を待たなくてはなりません。
両親と幼子イエスの会話から
両親は少年イエスから聞いたことを分かったでしょうか。分かりませんでした。だからといって、少年イエスに説明を求めません。わからないことをわからないまま受け止めます。母マリヤの感情、少年イエスの応答が行き交い、その中身の全容を理解できなくても受け止めます。大事なことばの掛け合いが必ずしも理解で終わらないことがあります。むしろわからないほうが多いのです。そのまま、愛と信頼で互いを受容する生き方もあります。
分かることに依存する関係は脆弱さをはらみ、わからないまま受容し合う強い絆が結ばれます。両親は、少年イエスの話されたことばの意味がわからなかった、とことわります。エルサレム神殿には毎年足を運ぶ家族です。わかったから神殿に行ったでしょうか。そうではなく、約束を信じて行きました。愛と信頼の絆を神からいただき、行くべき神の御業がなされるところ、「家」に少年イエスは家族と足を運び続けます。
今日の教会堂にて
教会堂に足を運ぶことはどうでしょうか。少年イエスの家が父なる神の御業がなされるところならば、私たちの会堂は父の家として足を運ぶところとなるでしょう。私たちの「家」は神殿以上の意味があります。主イエス・キリストをかしらとする、キリストのからだなるところ、教会です。罪赦され、贖われ呼び出された者の共同体です。父なる神の御業、主イエス・キリストの臨在を御霊により体験し、主イエス・キリストと共に礼拝する、礼拝共同体です。
少年イエスは、わたしが必ず父の家にいることを知っているでしょう、と答えます。家族で礼拝することがまれな国でいるべきところにいます、と告白し生きるのは厳しい状況です。大人も伴侶との間、家族間に難しい課題が続きます。しかし、天の父の家で、主イエス・キリストと共に礼拝する、神の家族があります。父の御業がなされる私たちの家です。私たちは神の家族です。
少年イエスは背たけも大きくなります。そして、神と人とに愛されたとあります。しばらくはそうです。しかし、やがて人々に拒否され、惨い扱いを受けるときが来ます。天の父なる神の愛は変わりません。