コンテンツへスキップ 投稿日:2022年5月12日/更新日:2025年1月6日

マタイ5章17-20節。キリストの律法

赤い影に十字架

マタイ5章17節ー20節から、キリストの宣教、キリストの律法と旧約聖書の律法の関係を解説します。旧約聖書の律法は、クリスチャンにとってどんな意味があるのでしょうか。律法を成就したキリストは、信仰による神への愛と隣人愛を土台にキリストの律法を与えています。

わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。

マタイ5章17-20節 聖書協会

イエス・キリストの宣教

主イエス・キリストは、「神の御国は近づいた」と宣言して宣教を始めました。神の御国は、主イエス・キリストを通してなされる神の支配を指しています。神の御国は、2段階で成就されます。主イエスは十字架にかけられ死んだ後、死からよみがえられ、今、天にて天地万物すべてを支配しています。これが第一段階の神の御国です。さらに、第二段階として、主イエスが再臨されるとき、悪魔の働きが完全に裁かれ、神の御国が最終的に成就されます。

マタイ5章-7章は、神の民が神の御国の下で地上で生きている間、守るべき戒めとして与えられています。さらに、神の民であるクリスチャンは、律法学者とパリサイ人の義にまさっていなければ、天の国に入ることはできないと、キリストは言っています。つまり、マタイ5章-7章のすべての戒めは、ユダヤ人教師たちの義にまさっている義をクリスチャンに与えていると、キリストは諭しているのです。

この箇所は新しい契約が十字架によって成就される前に与えられたのであるから、新しい契約の教えとして含まれるべきではないと考える人もいます。しかし、この解釈は、キリストのミッションである「神の御国は近づいた」を誤解しています。心の貧しい者が神の御国に入ることができるという原則は、新しい契約の真理です。

主イエス・キリストは、旧約聖書の律法を破棄(新共同訳では廃止と訳されている)するためにではなく、成就(完成)するために来ました。旧約聖書の律法は、たとえて言うならば家の型枠です。キリストは、その家の型枠に中身を付け加え、神の御心を具体的に示してくださいました。律法が成就された今、私たちは神の御心をイエス・キリストを通して知ることができます。

キリストは、どのように律法を成就したのでしょうか。律法を完全に実践することによって成されました。中身がなかった律法が、キリストによって形づくられたのです。ユダヤ教の律法学者たちが、解き明かしをするだけで実践はできませんでした。ところが、キリストは律法の意味を明白にしたのです。

キリストが示した律法の意味

キリストの律法

旧約聖書の律法は、イスラエル社会全体の秩序を保つために与えられました。倫理的な律法、礼拝における律法、刑罰における律法、食事や病気に関する律法など、主なる神はイスラエルを祝福し守るために律法を与えました。

その数え切れない律法の中から、キリストは「一番大切な律法は何か?」と聞かれ答えました。「主なる神を愛することと隣人を自分のように愛することが、一番大切な律法である」と明言しました。一番大切な律法と聞かれて、なぜ2つの律法を挙げたのでしょうか。それは2つの律法が、お金のお札の両面のような関係にあるからです。片方が偽であれば、それだけで偽札です。神を愛していると言いながら隣人を憎むことはできません。この2つの律法が与える基本原則に、キリストが律法を成就したすべての戒めが、包括的に含まれているのです。

ところが、ユダヤ教の律法学者やパリサイ人たちは、律法を守るにはどうすればいいのかを、自分たちの解釈で定めたのです。それらの解釈が、権威ある口伝律法として取り扱われていたのです。ユダヤ教の文献では、これらはタルムード(ミシュナとゲマラ)と呼ばれています。

ユダヤ人教師たちは、自分たちの伝統を守るために、神の御言葉をないがしろにしていました。彼らは、彼らの解釈によって律法を儀式的に守っていましたが、信仰の行いではなかったのです。自らの行いによって、自分自身を正しいとする自己義認だったのです。彼らは、神の義に飢え渇くのではなく、自らの義を追い求めていました。律法を単なる儀式として捉えて、正しい儀式の行いによって、自らを義としたのです。

キリストの律法

このような背景で、イエス・キリストは、山上の垂訓(マタイ5章-7章)を弟子たちに話したのです。ここで冒頭の聖句のキリストの言葉に注目してみましょう。ユダヤ教の律法学者とパリサイ人たちの義にまさっていなければ、神の御国にはいることはできないという警告です。この意味は何でしょうか。

クリスチャンがキリストの弟子であり続けるには、神を心から愛することと隣人を自分のように愛するのは必須条件です。この2つの律法を守らずして、教会の礼拝に出席しても聖書の学びに参加しても意味はありません。律法学者たちとパリサイ人たちと同じ過ちを犯しています。

神を愛すると隣人愛を具体的に実践する例は、どこにあるのでしょうか。その実践例が、マタイ5章-7章に書かれているのです。神の御前で霊・心の貧しい者になり、神の義を慕い求めること、これが神を心から愛する第一歩です。では隣人愛はどうでしょうか。敵をも愛する愛が、神が教える隣人愛です。求める者は与えることが隣人愛の実践なのです。人を裁くのではなくて、憐れみ深い者になるのが、隣人愛の実践です。

これらの行いは、神への信仰から出てくるものです。信仰によって神を愛し従う。信仰によって隣人を自分のように愛すのです。クリスチャンも罪人なる人間です。自分の解釈や義に頼りがちになりますが、マタイ5章ー7章を読むことにより原点回帰ができます。

結論

マタイ5章17節-20節は、非常に難しい個所です。しかし、聖書全体の文脈、マタイ5章―7章の文脈に沿って読めば、主イエス・キリストの真意を理解することができます。クリスチャンのIDは、地の塩であり世の光ですが、そのIDは神を愛する信仰と隣人愛に基づています。キリストが律法を成就してくださったことに感謝を捧げ、今日も神の御心に従って生きていけますように、心からお祈り申し上げます。

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