コンテンツへスキップ 投稿日:2022年6月28日/更新日:2025年1月6日

マタイ5章38-42節。目には目を

両手を握り祈る女性

マタイ5章38-42節の解説。「目に目を歯には歯を」と言われますが、主イエス様は悪人に手向かってはならないと教えています。今の世の中の風潮とまったく逆の戒めです。主イエス様の真意はなんでしょうか。強盗に襲われても手向かってはならないのでしょうか。

あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

マタイ5章38-42節 聖書協会

悪人に手向かってはならない 

マタイ5章-7章は、神様との関係(縦の関係)と人間関係(横の関係)について教えています。天の御国に生きる人たちは、どのような神との関係を持つべきか、また人間関係を持つべきかが教えられています。マタイ5章38節-42節はこの世の人間関係についてです。この世には良好な人間関係もあれば、悪い関係もあります。この箇所は、相手の人が悪意をもっている関係に、どのように対処すべきかが示されています。

マタイ5章38節-42節

主イエス様は、「悪人に手向かってはならない」の戒めを具体的な例をあげて解き明かしています。それぞれどんな意味があるのでしょうか。頭だけで理解してるだけではいけません。心から理解しないと、実践は難しいからです。ですから、どのように実践するかを考える必要があります。本題に入る前に、ユダヤ教と旧約聖書の背景を理解しておきましょう。

ユダヤ教の背景と旧約聖書の背景

1世紀のユダヤ教教師たちは、「目に目を、歯には歯を」の律法を「やられたら、やり返す権利」として理解していました。現代人も変わりはありません。「銃には銃、核兵器に核兵器を」と言えるでしょうか。

しかし、旧約聖書 レビ記24・17‐20に示されている律法の真意は、罪に対する警告でした。人の命を奪い取った人は、自分の命で償わなければならないという警告です。復讐する権利を与えてはいません。

マタイ5章-7章は、人間社会には悪が存在する事実を明確にしています。他の人の罪に対して、なぜ手向かってはならないのでしょうか。一方的に、攻撃され続けなさいと教えているのでしょうか。

主イエス・キリストが想定しているシナリオ

ロシアの作家、トルストイは、「悪人に手向かってはならない」を少し極端と思える解釈をしました。クリスチャンは、悪人と戦う警察官、軍隊の兵隊にはなってはいけないと説いたのです。とはいっても、実際に多くのクリスチャンの方々が賛成するかもしれません。

主イエス様はどのようなことを想定して、「悪人に手向かってはならない」と言ったのでしょうか。強盗などの見知らぬ人が襲うようなシナリオではありません。「襲われても抵抗するな」と教えているのではありません。むしろ顔見知りの人間関係で起きることを想定しているのです。つまり知人、隣人、友人、教会内、家庭内で起きるような、ギクシャクした人間関係です。相手が悪意をもって(少なくとも悪意と思える)論争を挑んできたり、搾取しようとしたら手向かってはならないのです。この原則を具体的な例で見てみましょう。

右の頬を打つなら、左を向けよ 

冗談ではなく、誰かが右の頬を打ったらどうするでしょうか。最悪のシナリオです。倍返しに返したくなるかもしれませんが、主イエス様は今度は左を向けよと言います。何と非情な厳しい教えでしょう。けれども、ここが主イエス様の弟子であるかが試されるときです。実際、このような状況におかれたらどうでしょうか。

自分の正義を飢え渇く人は、あれやこれやと相手を懲らしめる策を練り、倍返しに仕返しをします。神の義に飢え渇く人は、甘んじて悪を受け入れるでしょう。これも成長の糧、成長の肥やしです。悪に対して善で返す原則が、ローマ12章18節‐21節で語られています。悪に対して、クリスチャンは自ら復讐することはありません。悪に対しては善で返しなさいと戒められています。なぜでしょうか。復讐は神様がすることだからです。神様にお任せしましょう。

訴える人たちに抵抗しない 

「クリスチャン同士が裁判で争っている」ということを実際に見聞するときがあります。神の正義ではなくて、自分の正義を求めるから裁判に訴えるようなことをするのです。

このような争いが起きた時は、不義を甘んじて受けるのが神の御心です。クリスチャンは、このような争いごとに最初から関りをもちません。仮に言い争いになったとしても、もはや抵抗はしないのです。信仰によって、相手の話を聞いてあげるのです。

1キロ求めるならば、2キロ行きなさい

この例は、1世紀の背景を理解する必要があります。1世紀のローマ兵隊は、市民に彼の荷物を運ぶように命令できました。そのような特権が与えられていたのです。このような場合でも、進んで頼まれた以上のことをしてあげましょう。とはいっても、実際にこのような場面に遭遇しないと、できるかどうかは分かりません。

私は、このようなクリスチャンを実際に見たことがあります。このクリスチャンは、普段から主イエス様の弟子であるという自覚を持っていました。マタイ5章ー7章で示されているすべての戒めが、この方の心には常に刻み込まれていたかのように行動していたのです。私はこの方の言動を見て、大いに励まされたのを覚えています。

求める者には与えなさい。借りようとする者に、背を向けてはならない 

「求める人には与えなさい」の教え通りに、横田キリストの教会は、多くのホームレスの方々のお世話をしてきました。1か月間、ホームレスの方が教会に寝泊まりしたこともありました。この経験で気づいたことが一つ。一般論ですが、私たちが考える更生は、「その人がホームレスの状態から抜け出して、働いて自立する」ことではないでしょうか。しかし、このような更生をホームレスの方々は求めていません。彼らは働くのが嫌になって、自らすすんでホームレスの道を選んだのです。ホームレスの方々に衣食住を提供し新しい服をあげても、結局またホームレスの状態に戻ってしまいました。

結論

それでも食事という基本的なニーズは、求めている人々に与えるべきでしょう。その人たちが主イエス様を信じなくても、求められれば与えるべきです。なぜでしょうか。主イエス様は、多くの人々が信じないと知っていましたが、その人々に食事を与えました。神様の憐れみが、主イエス様の行いに示されています。クリスチャンも、同様に神様の憐れみを分かち合う必要があります。

マタイ5章33節-37節 一切誓いをたててはならない

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