コンテンツへスキップ 投稿日:2022年7月10日/更新日:2023年5月4日

マタイ5章43-48節。敵を愛す

主イエス様は、「敵を愛し敵のために祈りなさい」と戒めています。なぜ主イエス様は敵を愛しなさいと教えたのでしょうか。聖句の人気投票があったら、間違いなくトップテンには入らない聖句です。実践がもっとも難しい戒めです。ご一緒に考えてみましょう。

あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

マタイ5章5章43ー48節 聖書協会

本題に入る前に、神の教えの原則について確認しておきます。神の教えは、どんな教えであれクリスチャンに祝福をもたらします。私たちが嫌だなと感じる教えでも、最終的には祝福につながるのです。「敵を愛しなさい」もそんな教えの一つです。この原則なしには、理解も実践もできません。

ユダヤ教と旧約聖書の背景

旧約聖書には「隣人を自分自身のように愛しなさい」とは書かれていますが、「隣人を愛し敵を憎め」という教えはありません。しかし、ユダヤ人教師たちは、「隣人を愛しなさい」を「隣人以外は憎め」と曲解していたのです。この解釈が、1世紀のユダヤ教の伝統の教えでした。

そうはいっても、旧約聖書には「敵を憎む」に関して、確かに難解な聖句があります。詩篇139篇21-22節はどうでしょうか。

詩篇139篇は、ダビデの信仰告白です。ダビデは、神様に敵対する者を敵として憎むと告白しています。詩篇は神様の御言葉ですが、イスラエルの民の信仰告白の詩です。ですから、その詩の中には彼らの苦しみや悲しみを表す表現があります。特にダビデは、神様と敵対する人々に対峙しなければなりませんでした。そのような時、ダビデは神様に助けを求めて祈りました。神様の敵を自分の敵として、御名によって戦ったのです。このような文脈で読めば、ダビデが神の敵を憎むと祈ったのも理解できるのではないでしょうか。

同時に、旧約聖書には「敵に善を施しなさい」という教えもあります。「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。」(箴言25・21)

「敵を愛しなさい」は新しい契約の教えだと思われがちですが、始めから神の御心です。旧い契約の時から「敵を愛する」は教えられていたのです。しかしながら、旧い契約の時代には、敵を愛する真の意味は明らかにされていませんでした。神の御子である主イエス様は、隣人愛として敵を愛する意味を教え実践したのです。

敵のために祈り、敵を愛しなさいの意味と実践

正義感が強い人ほど、敵を完膚なきまで打ちのめしたくなるようです。敵が「参った。もう降参した」というまで敵を攻め続けるーこれが自分の正義のために戦っている人の態度です。ところが主イエス様の教えは100%逆です。

敵のために祈り敵を愛すとは、神様の義に飢え渇いている人だけがなせるわざです。自分の正義を求めている人には不可能なわざです。敵を愛すとは、神様の支配にひれ伏すことを意味します。神様の子供として、御前にひざまずき、敵のために祈ります。このような心から敵を愛す愛が生まれるのです。

神様の名によって敵を愛せる人は、人知を超えた恵みを受けます。敵対している人間関係を持っている人は、いろいろなことで思い煩います。意地悪されたり、嫌味を言われるかもしれません。そのような思い煩いは、人間の心を蝕んでしまいます。一転して、敵のために祈り愛し始めると、何が起きるのでしょうか。心の霧がはれます。モヤモヤがなくなります。神様の支配に身を置くからです。

神様が招く高い位置

神様の愛について考えてみましょう。神様は、悪人も善人も愛しておられます。人間の悪を見て、神様は悲しんでおられますが、人への愛は無条件の愛です。その愛が悪人にも注がれています。悪を行っている敵にも、神の恵みが与えられています。神様を愛している人を、誰が憎むことができるでしょうか。

私たち人間は、善は善で、親切は親切で、愛は愛で返します。これは、古今東西、万国共通の礼儀でしょう。この考え方を180度転換したのが、主イエス様です。主イエス様は、相手の態度や言動を問わず、敵であろうとなかろうと、人間を愛してくださいました。無条件の愛を示されたのです。

そして私たちにも神様と同じ愛の実践を求めています。今私たちを高い位置まで招いてくださっています。その無条件の愛を実践できるようになりなさいと、招いてくださっているのです。

マタイ5章の結論 天の父が完全であるように、完全な者となりない

またい5章48節「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」は、マタイ5章の結論です。マタイ5章-7章の中間の折り返し点です。

「自分が罪深い人間であること」を忘れてしまった人たちは、どんなでしょうか。自分には罪がないという人は、神様を偽り者として神様の真理を知らない人です。

パリサイ人のような偽善者です。自分たちを義人と称し、神様を礼拝していました。心から出る信仰によってではなく、律法を頑なに守ることによって、礼拝していたのです。このようなことを神様は求めていません。パリサイ人や律法学者の義にまさっていなければ、天に御国に入れません。

同時に、私たちは罪を犯さない生き方を目指すべきです。天の父が完全なように、私たちも完全になれるように生きるべきです。天の神様が聖なる方なように、聖なる者に変えられていく生き方です。しかし、これは自分の力では成し得ません。神様によって造り変えられていくのです。罪を犯さない生き方は、新約聖書の多くの個所で奨励されています。

主イエス様が戒めた「天の父が完全であられるように、完全になりなさい」の道筋が、上記の聖句に示されています。私たちは、常に主イエス様を見て歩むべきです。主イエス様は私たちのゴールであり、目標だからです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

モバイルバージョンを終了