マタイ6章11節を解説。主の祈りの構成を解説しつつ、今日の意味、必要な糧の意味を解き明かします。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。マタイ6章11節 聖書協会
主の祈りの構成について
主の祈りを2つに分ける解釈がある。前半部分の6・9-10を、神様の栄光を褒めたたえる祈りとして、後半部分の6・11-13を私たち人間のニーズのための祈りとして分けられる。
しかし、これは主イエス様の教えではない。6・9-10でも、神様を褒めたたえることにより、私たち人間のニーズのために祈っている。神様の御国が来るように祈り、御心が行われるように祈って、実は自分たちのために祈っているのである。神様の御国が来て、御心が行われるのは、私たちの恵みだからである。6・11-13でも、人間のニーズだけを祈っているようだが、実は、この祈りでも、神様の栄光を褒めたたえている。神様に寄り頼んでいるからだ。「必要な糧を今日与えてください」と祈るとき、神様の御国、御名、力、栄光から切り離して祈ることは出来るだろうか。決してそんな祈りは出来ない。この2つの部分は相互関係にあるのだから、切り離すべきではない。
必要な糧を今日与えてください 「今日」の意味
「必要な糧を今日与えてください」 この祈りの意味は何だろうか。まず、「今日」の意味を考えてみよう。主イエス様が教える今日の意味は何だろうか。1世紀の文化を考えながら、この意味を考えてみよう。
1世紀ローマ帝国のユダヤ社会は、農業社会だった。すべての人が農作業をした。だからその日、その日の天候によって、人々の生活は左右されていた。また労働者の給料は、現在のように月払いではなく、日払いで行われていた。この意味では、現代社会では、この祈りの「今日」の意味が失われているかもしれない。
しかし、クリスチャンは違う。クリスチャンは、今日を精一杯生きるように命じられている。人生の時間が、神様の贈り物だからだ。無駄にするものではない。命を大切に扱い、日々、神の御国と義を求めて生きるように命じられている。
クリスチャンは愚かな生き方はしない。過去に生きる人は、過去を悔やみ過去を引きずっている。未来に生きる人は、今日出来ることをやらずに、問題解決を先延ばしする。そのような生き方を悔い改めたクリスチャンは、今日という日を精一杯生きる。確かに、明日どんな日になるのか?はわからない。しかし、クリスチャンは、今日は明日のためにあるという事実を知っている。主イエス様が明日を備えてくださることを知っている。クリスチャンは、今日できることをやって、明日に備える。今日という日を無駄にしない。さて次のポイント、必要な糧とは何か。
必要な糧 肉の糧
第一に、この祈りは、神様が与えて下さる「肉の糧」を教えている。人は、食べなければ、やせ細って死んでしまう。言うまでもなく、食は人間のライフラインだ。ライフラインは他にもある。たとえば、電気、ガス、水道である。 しかし、これらのすべてのライフラインは、神様の恵みによって与えられている。
クリスチャンの信仰は、マタイ5・45に表現されている。天のおとうさまは、ご自分の太陽を昇らせているのだ。私たち人間が自然現象と考えることは、神様が今でも働いているから起きているのである。原語のギリシャ語を厳密に翻訳すると、「父(彼)の太陽」となる。太陽は、父なる神様が所有しているのである。
あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。(マタイ5・45)
さらにマタイ6・25-31を読んでみよう。
だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。…信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。(マタイ6・25-31)
この聖句には、神様が与えて下さる衣食住のライフラインが明確に書かれている。この聖句には、もう一つ大切な原理原則が示されている。神様に頼るとは、自分で変えられないことについては思い悩まないことである。主に頼り、主に従って生きていく人の口には、自然と「必要な糧を今日与えてください」という祈りが出てくる。
必要な糧 霊の糧
第二に、この祈りは、神様が与えて下さる霊の糧を指し示している。必要な糧は、肉の糧、衣食住だけではない。ヨハネ6・26-27を読んでみよう。人は、肉の糧だけで生きてはいけない。人には、肉体の命の他に、霊的な命があるからだ。人は、体とともに、心が育つ必要がある。
朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。(ヨハネ6・27)
若い人は、とにかくよく食べる。実際、いつもお腹が空いている。しかし、肉体的に満たされても、心が死んでいては?どうだろうか。人の心は、たとえクリスチャンではなくても、どこかで霊的に成長したいと叫んでいるものだ。クリスチャンはなおさらだ。霊的な糧をいただくためには、主イエス様を慕い求める心が必要である。
主イエス様は言った。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」霊的な糧をいただくために、クリスチャンは日々、聖書を読む習慣を身に着ける必要がある。お薦めは、旧約聖書の詩篇と箴言を読み、福音書を読む事だ。また、日々、祈る習慣も必要不可欠だ。
「人は習慣をつくる、習慣が人をつくる」と言われる。「肉の糧を今日与えてください」、「霊の糧を今日与えてください」と祈る習慣を身につけてみよう。しかし、悪い習慣はすぐついてしまうが、良い習慣はなかなか難しい。良い習慣は、意識に実践しなければ、自分の習慣にならないからだ。良い習慣は、3ヶ月かかると言われる。
結論
天のおとうさまは、私たちが祈る時、日々、私たちを養ってくださる。日々、私たちが必要なものを与えて下さる。生きるために、肉の糧を与えて下さる。主にあって生きるために、霊的に成長するために、霊の糧を与えて下さる。主イエス様を信頼してみよう。