主の祈り、マタイ6章9節、「天にいます私たちの父よ」を解説します。この聖句を3つに分けてみます。(1)天にいます方、(2)私たち、(3)父。それぞれの意味を、祈りのモデルである主の祈りの最初の項目として解説します。
祈りの正しいスタートライン

祈りのスタートラインは、「天にいます私たちの父よ」です。スポーツ競技でも試験でも、スタートラインが間違っていたら、失格になってしまいます。世界中の宗教には、いろいろな祈りの方法があります。たとえキリスト教を自称していても、誤った方法で祈っては、天にいらっしゃる神様は喜んではくれません。
「天におられるわたしたちの父よ」を次の3つに分けて解説します。(1)天にいます、(2)私たち、(3)父。祈りのスタートラインとして、それぞれ神学的に非常に重要な意味があります。この意味を理解するのは、有意義な祈りをするための始めの一歩です。
1.「天にいます」が加えられている意味
天にいます方は、天地万物を創造され、太陽を昇らせ、恵みの雨を与えてくださっている唯一の神様です。神様は、創造された自然と人を見て、「素晴らしい」と言われました。この聖なる神様には一点の暗闇もありませんが、この世を照らし出す光、知恵、力、栄光があります。
一方、私たちは地上に生かされている人間です。天にいます私たちの父よと祈るのは、神様の立ち位置と私たち人間の立ち位置を明らかにします。人は、神様の恵みによって生かされているに過ぎません。天にいます神様と違って、人には暗闇の罪があるだけで、知恵も力もありません。
このような無知な人間である私たちは、愚かな祈りをしがちです。パリサイ人のように人の誉れを求めるために祈ったり、異邦人のように同じ言葉を繰り返し祈ったりするのです。どちらの場合も、祈りを自分を高める道具として使っているのです。
信仰の人ヨブは自分が苦しみあえいでいるとき、神様に過ちがあると主張して神様を責めました。「このような苦しみを私に与える神は、何もわかっていない」と言って神様と対決しようとしました。神様はヨブに答えました。
これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。(ヨブ38・2-4)
上記の聖句は、天の神様の権威を明白にしています。全能の神様は、天にいらっしゃる創造主です。すべての支配者です。地上で生かされている私たちは、父なる神様の御前にてへりくだって、「天にいます私たちの父よ」と神様に祈ります。この意味を言い換えれば、「あなただけがすべてを支配している方、私たちは愚かな塵に過ぎない罪人です」と言えるでしょう。
2.「私たちの」が加えられている意味
祈りの基本は、個人の祈りです。マタイ6章5節-6節 独りで祈りなさいの理由を読んでみましょう。しかし、祈りは個人のものではありません。独りで祈っても共同体の祈りなのです。クリスチャンは独りで祈っても、主イエス様への共通の信仰をもっているからです。クリスチャンは、同じ父なる神様を信じ、同じ主なるイエス様を信じ、聖霊なる神様を信じているのです。この共通の信仰からかけ離れた祈り、また主イエス様の共同体である教会の兄弟姉妹から離れた祈りは、御心に適った祈りではありません。
たとえ独りで祈っていたとしても、本当のクリスチャンの祈りは、その人のためだけにあるのではありません。「天にいる私たちの父よ」と祈るとき・・・何が起こっているのでしょうか。教会の兄弟姉妹を当然、祈りに覚えるようになります。共同体の祈りとして祈っていることに気づかされます。確かに、独りで祈る祈りには、他の人には言えないプライベートなことが含まれています。しかし、それは共同体からかけ離れた祈りではありません。
なぜなら、自分の成長が他の兄弟姉妹の成長につながっているからです。
3.神様を「父」と呼んだ意味
神様を「父」と呼んだ理由は何でしょうか。意味は何でしょうか。「父」の意味について最近の解釈を紹介します。父を表すギリシャ語のPatarおよびアラム語のAbbaは、幼児が使う英語のDaddyと同じ意味合いを持っているという解釈が、クリスチャンの間で広がっているようです。神様がどのようなお方かの解釈は、時代によって左右に振れます。18世紀のジョナサン・エドワーズは、彼の説教「怒れる神の御手にある罪人」で、恐れるべき神というイメージを多くの人に植え付けました。21世紀では、「幼い子供の優しいおとうちゃん」のように、真逆の解釈になっているようです。この記事では、1世紀のユダヤ教の文化的背景を考慮に入れて、「父」の意味を考えてみましょう。
主イエス様を通して、父なる神様と新しい関係がつくられるために
旧約聖書にも神様を「父」と呼応している箇所が多数あります。イスラエルの民は、父なる神様によって創られました(イザヤ63・16)。同時に、主(YHWH)なる神様(EL)の呼称の方が、圧倒的に多いのも事実です。主の祈りの「父」という呼称には旧約聖書の背景がありますが、もっとも重要な理由は主イエス様と神様の関係にあります。
厳密にいえば、主イエス様だけが神様を父と呼べるのです。なぜなら、主イエス・キリストだけが、神の子であるからです。主イエス様は、「わたしの父の御心を行う者だけが天の御国に入る」といいました(マタイ7・21)。また、死から復活した後、「わたしの父であり、あなたがたの父である方」と言って、ご自分と父なる神様との関係が、使徒たちとの関係とは違うことを明らかにしています(ヨハネ20・17)。
クリスチャンは、主イエス様を通して、天の唯一の神様をお父様と呼べるのです。創造主なる方は全人類の神様ですが、クリスチャンにだけに父と呼べる特権が与えられています。
父なる神様の新しい契約によって
父なる神様は、モーセの律法を通してイスラエルの民と契約を結びました。これはイスラエルの民限定の契約です。イスラエル以外の異邦人は含まれていません。ところが、父なる神様は、この契約とはまったく違った契約を用意されていました。それが新しい契約です。
父なる神様は、一人子である主イエス様を信じるすべての人々と新しい契約を締結しました。新しい契約では、三位一体の神様が人と成られて、人間の罪のためにいけにえとなられて十字架にかけられました。
このいけにえは、イスラエルの民だけにされたのではありません。主イエス・キリストを信じる者すべての人々の罪を贖うために、神様の御前にささげられました。すなわち、主イエス様のいけにえによって、イスラエルの民ではない異邦人も、神様を「お父様」と呼べる恵みにあずかることができるのです。
イスラエル人ではない私たち異邦人は、主イエス・キリストを信じることによって、養子として受け入れられました。家族の一員ではない人が、家族として認められる養子縁組です。養子の刻印が、心に与えられた聖霊なる神様です(ローマ8・15‐16)。
父なる神様は、どんなお父様か?
私たちが信じます「天のいます父」は、どんなお父様でしょうか。主イエス様は、1世紀ユダヤ教社会の文化的背景の中で「天にいますわたしたちの父」と教えたことを考慮する必要があります。ユダヤ社会における父親は、「父が家庭の頭であり、主人である」という権威をもっていました。ギリシャ語Patar, アラム語Abba=父親像は、幼児が甘える英語のDaddy ではありません。
「天にいます父」は、どんなお父様でしょうか。神様の御心は、時代の流れによって左右に振れることなどありません。聖書には2つのイメージがあります。
厳しい父親のイメージは、へブル12・5-11に語られています。肉なる父親が子供を鍛錬するように、霊なる父なる神様はクリスチャンを鍛錬なさいます。クリスチャンは、この鍛錬に忍耐するように命じられています。鍛錬を終えた後の結果は、霊的な成長へとつながるからです。逆に鍛錬を受けないクリスチャンは、本当の意味で父なる神様の子供とは言えないとも諭されています。
一方、憐れみ深い父親のイメージは、ルカ15・11-31 放蕩息子のたとえで明らかにされています。どんなに放蕩のかぎりを尽くしても、悔い改める子供に対して父なる神様は、憐れみをもって迎えてくださるのです。これが放蕩息子のたとえ話のポイントです。
両方の父親像も、真実の父なる神様を言い表しています。主イエス・キリストは、父なる神様なしでは何もできないと告白しています。主イエス様は、100%父なる神様に頼っていました。厳しい憐れみ深い「父」に頼っていたのです。厳しさと憐れみは、相反する性質ではありません。
結論 クリスチャンは、主イエスの名によって父なる神様に祈れる
はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる(ヨハネ16・23-24)。
クリスチャンは、主イエス・キリストを通して、父なる神様と関係をもつことができているのです。主イエスの名を通して、神様を「天のお父様」と直接呼びかけることができます。日々の祈りの中で、「天のお父様」と呼びかけて祈ってみましょう。