コンテンツへスキップ 投稿日:2022年8月11日/更新日:2025年1月6日

マタイ6章。御名が崇められるように

帽子をかぶり祈る男性

主の祈りの「御名が崇められますように」の解説。マタイ6章9節。この短い祈りには、神学的に深い意味が啓示されています。

3つの意味に分けられます。1.自分の生き方によって、2.自分の周りにいる人たちによって、3.全世界の人々によって崇められるように。この記事ではこの意味についてご一緒に考えてみましょう。

祈りのスタートラインと最初の一歩

御名が崇められますように

祈りのスタートラインは、「天におられる私たちの父よ」であることは前回の記事で説明しました。祈りのスタートラインについた後、祈りの最初の1歩は、「御名が崇められますように」です。最初の1歩が正しくないと、2歩めに行けません。この短い祈りには、多くの方々が見過ごしている神学的に深い意味が啓示されています。

聖書における名前の重要性

いつの時代、どの文化でも、高い地位にいる人たちにとって、家名は非常に重要です。一方、身分の低い人たちはどうでしょうか。一昔前まで身分の低い農民は、家名などもっていなかったのです。このように、家名の価値観は、おそらくその人の文化や社会的階級によって違います。

「御名」と翻訳されていますが、直訳すると「あなたの名」です。「あなたの名」である神の名が、神様の本質(たとえば唯一性や永遠性)と属性(たとえば愛や知恵)すべてを言い表していると主張する牧師さんがいますが、これでは説明不足です。聖書的な根拠が説明されていません。ここでは旧約聖書の背景を説明する必要があります。

旧約聖書に出てくる名前には意味があります。たとえば、アブラハム=万民の父です。エリヤ=主(YH)である神(EL)という意味です。旧約聖書の中でもっとも大切な名前は、旧い契約における神様の名前YHWHです(出エジプト記3・13-15、6・2-3)。3・14でYHWHの名前の意味が説明されています。

  • 新共同訳 「わたしはある。わたしはあるという者だ」
  • 新改訳2017 「わたしは『わたしはある』という者だ」
  • ESV “I am who I am”

この名前は、神様が永遠の存在の方であり、第三者によって支えられている存在でないことを言い表しています。YHWHをみだりに唱える者は、神様の裁きを受けました。なぜなら、神様の名前は聖なる名前だからです。このような旧約聖書の背景があり、主イエス様は、「御名が崇められますように」と祈りなさいと教えたのです。

御名が崇められますように

マタイ6章9節は、新改訳では「御名が聖なるものとされますように」と翻訳されています。 新改訳は、hagiosを直訳しています。新共同訳が、まったく的を外している訳ではありませんが、新改訳の方が本来の意味を言い表していると思います。

この聖句は、「私たちは御名を崇めます」、「私たちは御名を聖なるものします」と言わずに、受け身の形で表現されています。なぜでしょうか。受け身の形にすることによって、主語を曖昧にして広い意味を含ませているからです。この短い聖句には、多くのクリスチャンが見落としてしまう深い神学的意味が3つあります。1.自分の生活、生き方によって、2.自分の周りにいる人たちによって、3.全世界の人々によって、御名が崇められますように。

【1】自分の生活、生き方によって

主イエス様は、弟子たちに「父なる神様に何でも願いなさい」と奨励しています。さらにもっとも大切なことは、弟子たちが実を結ぶことによって、父なる神様が栄光を受けるという真理を明らかにしています(ヨハネ15・7-8)。クリスチャンが、神様からいただいた聖霊によって、聖霊の実(愛、世転び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)を結ぶとき、父なる神様の御名が聖なるものとして崇められるのです。つまり、クリスチャンは、聖なる生き方によって、神様を褒めたたえているのです。

1ペテロ4・10-11は、それぞれのクリスチャンが神様から賜物を受けていると教えています。その霊的な能力を御心のままに使うとき、何が起きるのでしょうか。父なる神様が栄光を受けるのです。

クリスチャンが聖なる者として生きていくのは、すべてのクリスチャンに課せられた命題です。父なる神様が聖であるように、私たちも聖なる者とされたのです(1ペトロ1・13-16)。主イエス様の聖霊によって、新しく生まれ変わったのです。

御名が崇められるように、聖なる者として生きる

上記の真理は、私たちが忘れてしまう、または見落としてしまう成長のカギです。クリスチャンはその生き方によって、天のお父様に栄光を帰すです。これはクリスチャンの生き方の始めではないでしょうか。

【2】自分の周りにいる人たちによって

マタイ5・14‐16で主イエス様は、クリスチャンは世の光であると言っています。私たちの善い行いによって、周囲の人たちが神様を崇めるようになるためだと教えています。この善行は、マスコミで取り上げられるような大きなことではありません。むしろ、日々の生活での小さな親切、善い行いです。もしかしたら、誰も気づかないような行いかもしれません。愛によって行われる小さな行いには、必ず報いがあります。たとえ、その人たちが主イエス様を信じていなくても、「クリスチャンが信じる神様は素晴らしい」と言ってくれます。それだけも十分なのです。

1ペテロ2・11‐12は、「クリスチャンがこの世で一時的に生きている旅人である」という人生観を示しています。クリスチャンが目指す最終地点は、天の御国だからです。いうまでもなく、私たちの国籍は天にあります。天の御国を求めているクリスチャンは、この世のものに価値観を置いていません。このようなクリスチャンは、異邦人の間で立派な行いをするように心がけるでしょう。その結果として、それらの人たちも、訪れの日に父なる神様を崇めるようになるのです。

悪魔の力に屈しってはいけません。むしろ「聖なる者として生きる」決心をしましょう。悪魔のわざである罪に負けて、父なる神様は喜ぶはずはありません。主イエス様にあって生きる者は罪を犯しません(1ヨハネ3・6)。心で、口で、感情で、行動で罪を犯さず、日々、小さな親切、小さな善行を心がけましょう。

【3】世界中の人々によって

信仰深いクリスチャンは、主の再臨を待ち望みつつ、世界中の人々が神の御名を崇めるように祈ります(詩篇117)。なぜなら、このようなクリスチャンは、すべての命が父なる神様によって支えられているのを知っているからです。大自然に神様の知恵と力が現れており、神様の愛によって人間は生かされていると信じているからです。

父なる神様の一人子である主イエス様は、いずれ再臨されます。そのとき、天井のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです(ピリピ2・10)。

「御名が崇められますように」と祈るのが祈りの第一歩であれば、「御国が来ますように」が第二歩です。近日中にアップします。

 

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