コンテンツへスキップ 投稿日:2022年8月22日/更新日:2023年5月4日

マタイ6章10節。御国が来るように

主の祈りの一部である「御国が来ますように」という祈りを解説。多くの牧師さんは、御国が来るようにという祈りを、福音宣教に関連付けさせて解釈しています。そのような解釈は正しいのでしょうか。御国のたとえ話が、この祈りの3つの意味を教えています。1.御国は一番大切なもの、2.神の支配がある、3.終末の御国が来るように祈る。

現在の御国と終末の御国

主イエス・キリストは、「天の御国は近づいた。悔い改めなさい」と言って、神の御心を解き明かす宣教を始めました。主の道を用意していたバプテスマのヨハネも、同じメッセージを宣べ伝えていました。

主イエス・キリストが宣教した天の御国は、どのように成就したのでしょうか。人の罪のためのいけにえとして、主イエス・キリストは十字架につけられ死にました。悪魔は、この時笑っていたに違いありません。しかし、主イエス様は、3日目に死から復活して弟子たちの目の前に現れました。主イエス様は、悪魔のわざである死から復活して、悪魔にわざに打ち勝ったのです。

主イエス様のミッションである天の御国の門が、主を信じるすべての人に開かれたました。クリスチャンは、この世で生きている間、主イエス様の御国を経験します。しかし、それは道半ばの恵みです。終末において、クリスチャンは、永遠の命を受け死もない悲しみも嘆きも労苦もない天の御国に与るのです。

主イエス様によって成就された御国が来るようにと、クリスチャンが祈る意味は何でしょうか。この祈りを、多くの牧師さんは、クリスチャンの福音宣教に関連付けて解釈しています。この聖句を引用して、「祈って伝道しなさい」と奨励しています。一人でも多くの人が救われ、御国が広がることは、言うまでもなく大切です。しかし、この聖句は宣教について語っているのではありません。

天の御国が生活の中心にあるようにと願う祈りです。この祈りの焦点は、主イエス様の再臨によって成就される天の御国を待ち望む信仰生活にあります。主イエス様のたとえ話に、この祈りの意味が示されています。

御国が来るように祈る意味

マタイの福音書13章と25章には、天の御国がたとえ話で解き明かされています。天の御国には次の3つの特徴があります。

  • 天の御国は、私たちの人生において何よりも大切なものである
  • 善悪が共存している天の御国には、神様の支配が宿っている
  • 究極の天の御国は主の再臨によって成就され、すべての悪が裁かれる

1.人生で一番大切なものを与えてくださいと祈る

祈りは、日々行われるべきです。クリスチャンは、バプテスマをうけて罪赦され御国に生きていても、何よりも神の御国と義を求めて祈ります(マタイ6・33) 。天の御国の大切さが、マタイ13章44節-46節で説明されています。自分の全財産を売ってでも買う価値が、天の御国にはあるのです。天の御国は、私たちの人生においてかけがえのない宝です。

主イエス様によって成就された御国に、クリスチャンは生きていますが、自らの意志で離れることもできます。「主よ、主よ」という人たちすべてが、神様の裁きの日に、終末の天の御国に入れるわけではないのです。神様の御心を行う人たちだけが、天の御国に招かれるのです。

また「一度救われたら、永遠に救われる」という教理がありますが、そのような教えは聖書にはありません。誤った教えです。クリスチャンは、主イエス様から目を離さずに聖霊に満たされ御国に生き続けるようにと奨励されています。日々、御国が自分の生活に宿るようにと祈り、信仰によって生きるのです。

御国に生きるクリスチャンは、神に献げられる良い香りです。自分が御国に生きていないで、福音宣教はできません。生き方によって福音宣教をするのです。次に二番目の意味について考えてみましょう。

2.神様の支配が、自分の生活に宿るように祈る

御国とは、神様が王として臨在する霊的な支配を表しています。クリスチャンは、神の支配の下で生きているのです。このような理由で、使徒パウロは、たとえクリスチャンであっても、罪に生き続ける者が終末の御国を受け継ぐことはできないと警告を与えています(ガラテヤ5・16-21)。

つまり、主イエス様と本当につながっているクリスチャンは、神の支配が常に自分の生活に宿るように祈るのではないでしょうか。主イエス様は、人間には2つの道しかないと言っています。神様に従うか、悪魔に従うか、2つの道しかないのです。神様の裁きの日には、すべての人間は2つに分けられます。

種まきのたとえ話を読んでください。御国の御言葉を聞いても、悪魔によって騙されてしまう人たちがいます。罪深い私たち人間は、神様と悪魔の間を行ったり来たりするかもしれません。神様と悪魔のちょうど中間地点で綱渡りの生活をして、悪魔が準備している谷底に落ちそうな危ない生き方をしているかもしれません。このような危うい生き方をする必要はありません。

このように主イエス様が解き明かす天の御国では、すべてが神様の支配下にありますが、善と悪が共存しています。その中で、信仰深いクリスチャンは主イエス様を心から信じて、100倍、60倍、30倍にも実を結ぶのです。神様の働きを祈ります。導きを祈ります。神様が、自分の人生に介入してくださるように祈るのです。

神様の御心に適ったクリスチャンは、神様に心から従う信仰によって生きます。終末に準備されている御国に入るために、御国が常に日々の生活に宿るようにと祈るです。

3.主の再臨によって成就される終末の御国を待ち望む

現在、私たちが生きている天の御国では善と悪が共存していますが、終末の御国ではすべての悪が裁かれます。「御国が来ますように」の祈りは、終末の御国を待ち望みすべての悪が裁かれることを望んでいるのです。

クリスチャンは、自らの手で悪を裁くことはしません。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさいと教えられています。終末の御国を待ち望むクリスチャンは、神様が悪を裁いてくださると知っているからです。

マタイ13章と25章で語られている御国のたとえ話には、終末における神様の裁きが示されています。正しい者と悪い者がより分けられて、悪い者は燃え盛る炉の中に投げ捨てられます。悪い者は永遠の罰を受け、正しい者は永遠の命を受けるのです(マタイ25・46)

主イエス様は「天の御国は近づいた。悔い改めなさい」と宣教を始めましたが、その宣教は終末の御国も含めた壮大なスケールで始められていたのです。新約聖書を注意深く読みますと、御国が二重構造的に語られていることに気づくはずです。救いも二重構造的に語られています。クリスチャンは御国に生きていますが、善悪が共存している御国に生きているのです。なぜ二重構造的に語られているのでしょうか。それは、悪魔が未だクリスチャンを誘惑し神様から離れさせようとしているからです。まっすぐの信仰を失わせ、間違った方向へ導こうとしているからです。

  • 今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいている(ローマ13・11)
  • マラナ・タ。主よ、来てください(1コリント15・22)
  • このような者は、神の御国を受け継ぐことはできない(未来形 ガラテヤ5・21)
  • 主イエス・キリストは、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださる(主の再臨、へブル9・28)

神様の御心に適ったクリスチャンは、終末の御国に入り永遠の命に与るために、日々御国が来ますように祈ります。「御国が来ますように」という祈りは、福音宣教に関連付けて教えられるべきではありません。読者の皆様が、聖書をより深く理解して、神様の御心通りにお祈りできますように。

祈りについて

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