マタイ5-7章、山上の垂訓から礼拝メッセージシリーズ。マタイ7章7-11節。求めよさらば与えられんの意味を考え実生活に当てはめてみよう。
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。マタイ7章7-11節 聖書協会
目を閉じて自分が小さい頃を思い出してみよう
ちょっと目を閉じて、自分が子供の頃、お父さん、お母さんにおねだりしたことを思い出してみよう。「~が欲しい。これ買って欲しい」と頼んだ時のことを思い出してみよう。どんな気持ちでお父さん、お母さんに頼んだのだろうか。甘えたかったに違いない。そんな気持ちは、子供の頃、誰もがもつものだ。
今は大人になって、何かをお願いするのをやめてしまったかもしれない。これは、子供の頃の思い出に過ぎないと思ってはいないだろうか。もう大人になったら、そんな甘えたことは言っていられないと考えてはいないだろうか。

今日は、小さい頃に戻ったつもりで、天のお父様に何かをお願いしてみよう。実際、天のお父様は、私たちを招いてくださっている。
天のお父様が、私たちを招く「祈りの道」を学んでみよう。天のお父様が、私たちを招く「祈りの道」には3つの特徴がある。この祈りの道は、天のお父様が、どのような方かを教えている。天のお父さまと私たちが、どのような関係を持っているのかを教えている。
1.天のお父様は、優しく祈りを聞いて下さっている
まず第一に、天のお父様は、優しく私たちの祈りを聞いて下さっている。私たちの人間の父親は、人間ゆえに自分勝手なことをいう事もあったかもしれない。子供たちの願いを無視することもあったかもしれない。
私たちが信じる天のお父様は、天地万物を創造された神様である。すべての動植物、自然、太陽も月も、夜空の星もすべてを創造された方だ。それだけではない。私たち人間を他の動植物とは区別して、特別な愛を込めて私たち人間を創られたのだ。
だから、主イエス様が言うように、私たち人間は、空を飛ぶ鳥たちよりも、野に咲く花よりも、優れた者として神様に愛されている。だから、私たちは、霊的な存在として生かされている。霊的な存在、つまり神様とつながっている存在として、私たちは生きているのだ。
ただ多くの人たちは、私たちが神様によって創造された事実を認識しないで生きている。むしろ、自分自身で偶像を造ってそれを拝んでいるのだ。これは順序が逆である。本当の順序は、神様が私たちを造ったのだ。だから、私たちは神様を創造主として拝む。
私たちは、肉体的には自分の父母から生まれてきた。しかし、そこに命の息吹を吹き込んだのは、天にいらっしゃる創造主なる神様であり、私たちが主イエス様の名によって、天のお父様と呼べる方である。私たち人間を愛している方である。では二番目の特徴は何だろうか。
2.あきらめずに祈り続ける
第二の特徴は、あきらめずに祈り続けることである。
また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。ルカの福音書11章5-13節 聖書協会
このたとえ話の出てくる人の願いは、「友人が来たので、少しパンを分けてくさい」という非常にありふれた願いだ。「神様のために何かをするとか、宣教するために助けてください」という願いではない。ここに主イエスが、私たちに言っていることがある。あなたが必要と思うことは何でも願いなさいと励ましているのだ。
そして、この人がしつこく頼んでいると、ついにはこの家の人は、この人が求めていたパンを与えるのだ。主イエス様は、天の神様は、なおさら祈る人の声を聞くと言っている。天のお父様は、私たちがしつこく、何度も何度も願っている祈りをきちんと聞いている。
パンを欲しがっているのに、石を与える親はいない。魚を欲しがっているのに、ヘビを与える親もいない。人間の親が、子供に対して良い物を与えるのを知っているのであれば、天のお父様はなおさら、私たちに良い物を与えてくださると約束している。しかし、すべてが私たちが願うとおりに、叶えられるわけではない。ここでも軌道修正がある。
だから「求めなさい。探しなさい。叩きなさい」と言っている。なぜこのような3つの表現を使ったのだろうか。この3つの表現を使って、主イエス様は、気を落とさずあきらめずに祈る事の重要さを説いている。ある時は、神様の御心を求め、またある時は、自分が無くしてしまった物を探して、またある時は、人生の道が開かれるように、ドンドンと神様のドアをノックするだろう。このように、私たちは、違った場面で違った状況において、神様に願うのだ。諦めてはいけない。しつこく神様にお願いしなければいけない。
参照記事 マタイ5章21-26節。怒りの罪、 マタイ6章12節、罪の赦しのために祈る、 マタイ6章13節。誘惑にあわせず…
3.神様の御国が私たちに宿るために、聖霊を与えて下さる
私たちの祈りのゴールは、私たちが欲しいものをゲットすることではない。私たちがパンが欲しいと願って、石を与えるような神様ではない。神様は、パン以上に良い物を私たちに与えてくださる。ここに、主イエス様が教える祈りのすごい所がある。
私たちが、主イエス様の名によって心から祈る時、天のお父様は私たちの祈りを聞いて下さっている。私たちが必要な物を知っている。たとえ、私たちが見当違いな祈りをしていても、神様はそんな私たちを怒ったりはしない。すべてを愛で受け止めてくださるのだ。
私たちが卵を下さい、魚をくださいと祈ったら、それ以上の物が用意されているのだ。それは神様の聖霊。私たちが必要と感じている食べ物、生活で必要な物、便利な物、それ以上の物が用意されている。素晴らしい恵みが準備されている。
結論 この3つの特徴からわかること
私たちの祈りのゴールは、私たちの思いのままに神様をコントロールすることではない。むしろ、神様が私たちを導くために、私たちの祈りは存在すると言っても過言ではない。私たちが神様によって整えられるために、祈りは存在する。祈りは信仰から出てくるクリスチャンの心の叫び。だから、クリスチャンにとって祈りは絶対条件なのだ。
私たち人間は、一般的に「祈り」が苦手だ。多くの日本の宗教がご利益宗教の祈りをしている。クリスチャンも例外ではない。主イエス様が教えるように、常に天のお父様を信頼して諦めずにしつこく祈る必要がある。そのプロセスで、神様は私たちを整えて下さり軌道修正してくださる。最終的には、素晴らしい恵み、神様の聖霊で満たされるという恵みが与えられるのだから。