コンテンツへスキップ 投稿日:2022年11月6日/更新日:2023年5月4日

マタイ7章7-11節。求めなさい

求めよさらば与えられん

マタイ5-7章、山上の垂訓から礼拝メッセージシリーズ。マタイ7章7-11節。求めよさらば与えられんの意味を考え実生活に当てはめてみよう。

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。

マタイ7章7-11節 聖書協会

目を閉じて自分が小さい頃を思い出してみよう

ちょっと目を閉じて、自分が子供の頃、お父さん、お母さんにおねだりしたことを思い出してみよう。「~が欲しい。これ買って欲しい」と頼んだ時のことを思い出してみよう。どんな気持ちでお父さん、お母さんに頼んだのだろうか。甘えたかったに違いない。そんな気持ちは、子供の頃、誰もがもつものだ。

今は大人になって、何かをお願いするのをやめてしまったかもしれない。これは、子供の頃の思い出に過ぎないと思ってはいないだろうか。もう大人になったら、そんな甘えたことは言っていられないと考えてはいないだろうか。

求めなさい、探しなさい、叩きなさい

今日は、小さい頃に戻ったつもりで、天のお父様に何かをお願いしてみよう。実際、天のお父様は、私たちを招いてくださっている。マタイ7章7-11節

天のお父様が、私たちを招く「祈りの道」を学んでみよう。天のお父様が、私たちを招く「祈りの道」には3つの特徴がある。この祈りの道は、天のお父様が、どのような方かを教えている。天のお父さまと私たちが、どのような関係を持っているのかを教えている。

1.天のお父様は、優しく祈りを聞いて下さっている 

まず第一に、天のお父様は、優しく私たちの祈りを聞いて下さっている。私たちの人間の父親は、人間ゆえに自分勝手なことをいう事もあったかもしれない。子供たちの願いを無視することもあったかもしれない。

私たちが信じる天のお父様は、天地万物を創造された神様である。すべての動植物、自然、太陽も月も、夜空の星もすべてを創造された方だ。それだけではない。私たち人間を他の動植物とは区別して、特別な愛を込めて私たち人間を創られたのだ。

だから、主イエス様が言うように、私たち人間は、空を飛ぶ鳥たちよりも、野に咲く花よりも、優れた者として神様に愛されている。だから、私たちは、霊的な存在として生かされている。霊的な存在、つまり神様とつながっている存在として、私たちは生きているのだ。

ただ多くの人たちは、私たちが神様によって創造された事実を認識しないで生きている。むしろ、自分自身で偶像を造ってそれを拝んでいるのだ。これは順序が逆である。本当の順序は、神様が私たちを造ったのだ。だから、私たちは神様を創造主として拝む。

私たちは、肉体的には自分の父母から生まれてきた。しかし、そこに命の息吹を吹き込んだのは、天にいらっしゃる創造主なる神様であり、私たちが主イエス様の名によって、天のお父様と呼べる方である。私たち人間を愛している方である。では二番目の特徴は何だろうか。

2.あきらめずに祈り続ける

第二の特徴は、あきらめずに祈り続けることである。ルカの福音書11章5-13節。

このたとえ話の出てくる人の願いは、「友人が来たので、少しパンを分けてくさい」という非常にありふれた願いだ。「神様のために何かをするとか、宣教するために助けてください」という願いではない。ここに主イエスが、私たちに言っていることがある。あなたが必要と思うことは何でも願いなさいと励ましているのだ。

そして、この人がしつこく頼んでいると、ついにはこの家の人は、この人が求めていたパンを与えるのだ。主イエス様は、天の神様は、なおさら祈る人の声を聞くと言っている。天のお父様は、私たちがしつこく、何度も何度も願っている祈りをきちんと聞いている。

パンを欲しがっているのに、石を与える親はいない。魚を欲しがっているのに、ヘビを与える親もいない。人間の親が、子供に対して良い物を与えるのを知っているのであれば、天のお父様はなおさら、私たちに良い物を与えてくださると約束している。しかし、すべてが私たちが願うとおりに、叶えられるわけではない。ここでも軌道修正がある。

だから「求めなさい。探しなさい。叩きなさい」と言っている。なぜこのような3つの表現を使ったのだろうか。この3つの表現を使って、主イエス様は、気を落とさずあきらめずに祈る事の重要さを説いている。ある時は、神様の御心を求め、またある時は、自分が無くしてしまった物を探して、またある時は、人生の道が開かれるように、ドンドンと神様のドアをノックするだろう。このように、私たちは、違った場面で違った状況において、神様に願うのだ。諦めてはいけない。しつこく神様にお願いしなければいけない。

3.神様の御国が私たちに宿るために、聖霊を与えて下さる

私たちの祈りのゴールは、私たちが欲しいものをゲットすることではない。私たちがパンが欲しいと願って、石を与えるような神様ではない。神様は、パン以上に良い物を私たちに与えてくださる。ここに、主イエス様が教える祈りのすごい所がある。

私たちが、主イエス様の名によって心から祈る時、天のお父様は私たちの祈りを聞いて下さっている。私たちが必要な物を知っている。たとえ、私たちが見当違いな祈りをしていても、神様はそんな私たちを怒ったりはしない。すべてを愛で受け止めてくださるのだ。

私たちが卵を下さい、魚をくださいと祈ったら、それ以上の物が用意されているのだ。それは神様の聖霊。私たちが必要と感じている食べ物、生活で必要な物、便利な物、それ以上の物が用意されている。素晴らしい恵みが準備されている。

結論 この3つの特徴からわかること

私たちの祈りのゴールは、私たちの思いのままに神様をコントロールすることではない。むしろ、神様が私たちを導くために、私たちの祈りは存在すると言っても過言ではない。私たちが神様によって整えられるために、祈りは存在する。祈りは信仰から出てくるクリスチャンの心の叫び。だから、クリスチャンにとって祈りは絶対条件なのだ。

私たち人間は、一般的に「祈り」が苦手だ。多くの日本の宗教がご利益宗教の祈りをしている。クリスチャンも例外ではない。主イエス様が教えるように、常に天のお父様を信頼して諦めずにしつこく祈る必要がある。そのプロセスで、神様は私たちを整えて下さり軌道修正してくださる。最終的には、素晴らしい恵み、神様の聖霊で満たされるという恵みが与えられるのだから。

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