コンテンツへスキップ 投稿日:2022年10月15日/更新日:2023年2月11日

キリストを信じる理由

クリスチャンになっても多くの人たちが、教会生活に躓いてしまいます。キリスト以外の物や人に、信仰の礎をおいているからです。キリストを信じる理由を説明します。1.イエス・キリストだけが、神への道だから、2.キリストだけが信仰の創始者であり完成者だから、3.キリストだけが人生の師であり先生であるから。この信仰が、神の御心に適った信仰です。

1.イエス・キリストだけが、神への道だから

主イエス・キリストを信じるとは、神を信じる信仰です(ヨハネ14章1節-6節)。神との関係を持つには、この方を信じなければなりません。他の誰でもないのです。教会のリーダーを信じても、神との関係を持つことは出来ません。主イエス・キリスト以外に神への道はありません。この方から目を離し、教会のリーダーや牧師を信じたり、教会の組織を信じたりするときに、信仰が盲目的になり躓きのもとになります。

一度、白紙の状態から自分の信仰を吟味してみましょう。何を自分は心から信じているかを、ノートに書き留めてみます。そして、根拠はどこにあるのかを答えてみましょう。

他のクリスチャン、たとえば教会の牧師やメンバーの偽善的な態度を見て、結果的に信仰を捨てたという話をよく聞きます。しかし、牧師であろうと有名な先生であろうとも、人間は誰でも罪人であり過ちを犯し続けます。そのような人の罪を見て、キリストへの信仰を捨てていいのでしょうか。そんなことは絶対あってはなりません。主イエス・キリスト以外に救いの道はありません。主イエス・キリストだけが神の道なのです。では2番目の理由を考えてみましょう。

2.主イエス・キリストだけが、信仰の創始者であり完成者だから

主イエス・キリストは、信仰の創始者であり完成者です(へブル12章1節-2節)。クリスチャンは、信仰の第一歩を信仰の創始者であるイエス・キリストから学ぶのです。主イエス・キリストは、「信仰とは何か」を教えてくれました。「どのように神を信じるのか、愛するのか。どのように隣人を自分のように愛するのか」を実践して、私たちに教えて下さったのです。信仰のスタートラインが、主イエス・キリストにあるのです。

自分の判断が100%正しいなんてありえない、と私は知っています。聖書を100%すべて正しく理解しているなんて、私にはあり得ません。(実際、誰にとっても不可能なことです。)自分が罪人であり、神の御心に反したことをしてしまうのも認識しています。健全な信仰とは、神を信頼すると、同時に、自分の愚かさを知ることではないでしょうか。

同時に、他のクリスチャンの判断にも絶対はないのです。100%正しいということもあり得ません。たとえ、自分が尊敬する牧師の判断であっても、絶対はあり得ません。そもそもカルト的宗教集団が始まるきっかけは、ある宗教リーダーの判断を100%信じる盲目的信仰にあるのではないでしょうか。たとえ、尊敬される有名な牧師の聖書解釈であっても、それを自分自身で考え、検証する必要があります。それを鵜呑みにしていたら、盲目的信仰になってしまいます。

主イエス・キリストは、信仰を完成させた方です。悪魔によって誘惑されたときも、父なる神にすべてをゆだね、信仰をフィニッシュした方なのです。だからクリスチャンは、信仰のスタートからフィニッシュまで、主イエス・キリストに目を離してはいけないのです。クリスチャンの人生は、山あり谷ありです。しかし、そんな人生の嵐が来るときにも、主イエスはあなたの信仰を守ってくださいます。あなたの信仰を成長させてくださいます。

3.主イエス・キリストだけが、人生の師であり先生だから

第三の理由は、「主イエス・キリストだけが人生の師であり先生である」という事実に基づいています。私たちは、神様の御心に適った生き方を主イエス・キリストから学びます。この方だけが、人生の師であり先生です。だから、私たちの生活にまとわりつく罪をかなぐり捨てて、主イエス・キリストに目を向けて生きなさいと聖書は教えています。

しかし、現実のキリスト教は、主イエス・キリスト以外の人間、教会のリーダーであっても罪人に過ぎなり人間を、特別扱いして神と民の仲介者として見ています。神と民の仲介者は、主イエス・キリストだけです。

クリスチャンは、人生の土台をどこに置いたらいいのでしょうか。キリストが建てている教会の交わりは大切ですが、教会は人生の土台にはなりえません。人生の土台はあくまでも主イエス・キリストにあります。キリストの弟子であるクリスチャンは、この方に倣いこの方から学び続けるのです。ここに人生の土台があるのです。

もちろん、他のクリスチャンからも多くのことを学べますが、クリスチャンの目の焦点は、常に人生の師である主イエス・キリストにあるべきです。主イエス・キリストを日々見上げ、父なる神を礼拝をするーーーこれを日課にしましょう。人生の土台が主イエス・キリストに築かれます。

主イエス・キリストから離れては、クリスチャンは何もできません。つまり、神の御心に適った生き方はできないのです。その意味で主イエス・キリストは霊的な成長の礎です。主イエスはブドウの木であり、クリスチャンは伸びている枝です。ブドウの木から離れて枝は実を結べません。

結論 

健全な信仰は、主キリストとの健全な関係に基づいています。どんなに聖書の知識をもっていても、主キリストとの関係が健全でなければ、クリスチャンとして成長するのは不可能です。教会にまじめに通い礼拝に参加していても、主キリストとの関係が不健全であったら、どんなクリスチャンでしょうか。

健全な信仰は、主キリストとの縦の関係に基づいていますが、必然的に主キリストが教えた隣人愛という横の関係も重要です。隣人を憎んでいて、同時に主キリストを愛す事はできません。教会内の兄弟姉妹と仲が悪い状態で、健全な信仰は保てません。

クリスチャンであっても、信仰の焦点が間違えば盲目的な信仰に陥りやすいのです。主イエス・キリストへの信仰が一番大切である理由3つを説明しました。読者の皆様が、常に主キリストに目を向け霊的に成長されますように、心よりお祈り申し上げます。

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