コンテンツへスキップ 投稿日:2022年3月5日/更新日:2023年6月6日

神のみこころに身を任せるとは?

「神のみこころに身を任せるとは?」というタイトルで、御茶の水キリストの教会の伝道者である野口良哉さんに寄稿していただきました。

神の愛と私たちが向き合う試練

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道を備えてくださいます。」 (コリント人への手紙第一10章13節)

星野富弘さんの場合

星野富弘さんという方をご存知でしょうか?・・・星野さんは元々中学校の体育の先生でしたが、鉄棒の模範演技中に転落し、生死の境をさまよった挙句、全身麻痺になってしまった方です。闘病生活では悶々とした日々が続きますが、やがてキリスト教と出会ってクリスチャンになられました。また、星野さんは、口に筆を咥えて野花を描いたり、素晴らしい詩を紡ぐクリスチャン詩画家としても有名です。星野富弘カレンダーを掲げている方も少なくないのではないでしょうか?彼の故郷、群馬県みどり市にある「富弘美術館」は、いつ訪れても、多くの方々がいらっしゃっているようです。そんな星野富弘さんは子供の頃、地元の渡良瀬川で溺れた経験があるそうです。増水した急流に流され、いくら泳いでも元いた岸には戻れず、助けを呼ぼうにも、声を上げると水を何杯も飲んでしまうという状況でした。

そんな中、もうダメかと思った瞬間・・・ふと、流れに身を任せればそのうち浅瀬に流れ着くのではないかと閃いたというのです。そして、実際に、無理に元いた岸には戻ろうとせずに、川の流れに身を任せていった時に、やがて流れの緩い場所に流れ着き、足を伸ばしてみると、そこは何と川底が自分の腰ほどの浅瀬だったのでした。星野少年は助かったのです。

その経験を、あの鉄棒からの転落事故後の闘病生活の中で思い出し、無理に闘うのではなく、むしろ、流れに身を任せて歩んでいこうと思ったというのです。「何もあそこに戻らなくていいんじゃないか・・・流されている私に、今できる一番良いことをすればいいんだ」(星野富弘『 四季抄 風の旅 』より)

コロナ禍という試練の中にあって

私たちも今、このコロナ禍にあって、無理にコロナ前に戻ろうと躍起になるのではなく、むしろ、「置かれた場所で咲きなさい」との思いで、その流れの中でできることをしていけばいいのではないでしょうか?神のみこころという大きな流れに身を任せることをしていきたいと思います。コロナ禍の中にあって、神は、私たち一人一人に、必ずしも「対決の道」ではなく、「脱出の道」を備えていて下さるはずです。

コロナ禍に限らず、にっちもさっちもいかない時に、とりあえず、肩の力を抜いて、その流れに身を任せてみましょう。神にこそ、身をお委ねしてみましょう。そうする時に、思わぬ漂着地点、そこに新しい世界が備えられているのではないでしょうか?

神のみこころに身を任せる意味

ところで、流れに身を任せるとは、必ずしも諦めると言うことではなく、別な言い方をすれば、万事を益とし、最善を為して下さる主なる神様を心から信じて、そんな神にこそ身を任せする、お委ねするということです。そんな神様は、あのクロネコヤマトの宅急便のロゴマークの親ネコのように、身を委ねた子ネコのような私たちを究極の安全な場所、救いへと運んで下さるのではないでしょうか?

「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」  (イザヤ書46章3~4節)

御茶の水キリストの教会  野口 良哉

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

モバイルバージョンを終了