こんな言葉がある。「真の意味で、人を動かすものは何か?それは脅しでもなければ、見返りでもない。深い感動である。」
あの良きサマリヤ人のたとえに登場するサマリヤ人においても、その深い憐みの思い(感動)が、旅の忙しさやユダヤ人への敵意をも越えて、彼を愛の行動へと駆り立てたのではなかろうか?
ところが、旅をしていたあるサマリヤ人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い・・・
ルカによる福音書10章33節 聖書協会
イエス・キリストのたとえ話の中でもひときわ有名な「良きサマリヤ人のたとえ」。・・・一人のユダヤ人の旅人が峠道で強盗に襲われ、身ぐるみ剥がされて、そのままでは死んでしまいかねない大変な状況に陥ってしまいました。そこを三人の人物が通りかかります。同じくユダヤ人の祭司と、下級祭司レビ人。いずれも宗教指導者たちです。そして、もう一人は、ユダヤ人からは差別され、抑圧されていたサマリヤ人でした。
三人のうち二人、すなわち、祭司やレビ人は、道の反対側を通り過ぎて行きました。死体に触ると汚れて神殿での奉仕ができないという大義名分があったのかもしれませんが、いずれにしましても、不要な困難に巻き込まれないように、無関心を装ったのかもしれません。ちなみに、かのマザー・テレサに帰される名言に「愛の反対は、憎しみではなく、無関心です」というものがあります。このことから言えば、祭司やレビ人は、道の反対側のみならず、“愛”の反対側をこそ、通り過ぎて行ったのではないでしょうか?
それに対しまして、結果的に、サマリヤ人は、道の反対側、愛の反対側、そのいずれの反対側も通り過ぎることなく、なんとそんな重傷を負っているユダヤ人に「近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」上に、翌日、「デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して」「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」とまで言っているのであります。
野口良哉伝道者 イエス・キリストの福音メッセージ
なぜ、彼にそんなことができたのでしょうか?・・・ポイントは、サマリヤ人がそんな信じられないような敵をも愛する愛の行為に出る直前のこのくだりにあるのではないでしょうか?すなわち、「旅をしていたあるサマリヤ人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い・・・」というところであります。・・・「憐れに思う」、原語のギリシア語では、“スプランクニゾマイ”であります。そして、そんな“スプランクニゾマイ”の原意は「内臓が揺り動くほど心動かされる」という意味であります。ある方は、これを「断腸の思いに駆られて」と訳しています。名訳ですね。
こんな言葉があります。「真の意味で、人を動かすものは何か?それは脅しでもなければ、見返りでもない。深い感動である。」。まさに、このサマリヤ人の深い感動、内臓が揺り動かされるほど深い憐みの思いは、旅の途中という忙しさや、サマリヤ人としてのユダヤ人への敵意をも越えて、彼を瀕死の重傷を負っているユダヤ人のもとに誘ったのです。
読んで下さいましたあなたに、神様の平安が豊かにありますように。
シャローム!