聖書の一日観は、一般的な“朝から始まって夜で終わる”というものではなく、前の日の“夕方(夜)から始まって翌日の朝に続く”という一日観である。ここには、「夜があっても朝は来る」、「絶望の夜があっても必ず希望の朝(あした)はやって来る」というような希望が込められているのだ。
「夕べがあり、朝があった。」
旧約聖書「創世記」1章5節 聖書協会
聖書・開巻冒頭の書、創世記の最初に記されている天地創造の場面で、六日間の創造のそれぞれの日の最後に「夕べがあり、朝があった。」という文言が繰り返されています。どうやら、この記述から、聖書における一日観は、一般的な“朝から始まって夜で終わる”という一日観ではなく、前の日の“夕方(夜)から始まって翌日の朝に続く”という一日観になったようです。ちなみに、いわゆるクリスマス・イヴは、この聖書的一日観から、本来は「クリスマス前夜」ではなく、むしろ、「クリスマスの夕べ(始まり)」を意味するのではないでしょうか?
ところで、ある人は、この“夕方(夜)から始まって翌日の朝に続く”という聖書的一日観があったがゆえに、ユダヤ人はあの度重なる迫害の歴史を乗り越えられたのだと主張します。つまり、ユダヤ人は、「夕べがあり、朝があった」、「夜があっても朝は来る」、「絶望の夜があっても必ず希望の朝(あした)はやって来る」と考え、希望に生きられたのではないか、というのです。
確かに、私たちには、絶望するような試練の夜、老いと死の予感に恐れる人生の夕暮れを過ごすことがあるのではないでしょうか?しかしながら、聖書は私たちに、神が試練に脱出の道を備え、また、死は決して終わりでないことを明言しています。
野口良哉伝道者の元気が出るメッセージ
新約聖書・コリント人の信徒への手紙一10章13節「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせ会わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
同じく新約聖書・ヨハネによる福音書11章25節「イエスは言われた。『わたしは、復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。』」
終着駅は始発駅、終わりは新しい始まり。神は、私たちの「もう終わった」と思えるような試練の只中に“そのあと”を生きるための脱出の道を備え、イエス・キリストの十字架と復活を通して、死は決して終わりではないことを私たちに示して下さっております。・・・「夜があっても朝は来る!」ことを覚えて、大変な中にも、前を向きたいものです。
読んで下さった貴方に、主の豊かな平安がありますように! シャローム