私たち人間は“器”のような存在です。当然、枯渇することもあります。それゆえ、時に、満たされることが必要なのではないでしょうか?そして、満たされた“器”は、他の枯渇した“器”に注ぐこともできるのです。
最初に一問、なぞなぞを出題します。「いつも喉が渇いている生き物は一体、何でしょうか?」[⇒リピート]・・・答えは「ミミズ」です。~「みっ、水!」というわけですね。今まさに、熱中症に要注意ですので、熱中症予防のために、適度な水分補給を欠かさないで下さい。
ところで、渇くのは、必ずしも喉だけではありません。私たちの心も、時に渇きを覚えることがあるのではないでしょうか?一見、何の問題もないかのように見えて、何か満たされない。漠然とした不安を感じていたり、いつのまにかイライラしてしまっている。そんなことはないでしょうか?
ところで、新約聖書の「ルカによる福音書」の中に、マルタとマリヤという姉妹の話が出て参ります。そんな二人の家をイエス・キリストご一行様が訪れます。働き者の姉マルタは、まさに奉仕する器として、身を粉にして給仕に励んでおりました。その一方、妹のマリヤはイエス・キリストの足もとでその話に聴き入っていたのであります。忙しく働く自分をよそにイエスとの話に夢中になっている妹マリヤに対して苦々しい思いになってしまった姉マルタは、イエス・キリストに対して妹マリヤへの非難と愚痴をぶちまけました。おそらく、マルタは、その忙しさの余り、いつの間にか、他人の器に料理を盛り付けたり、ぶどう酒を注いでいながら、自分という器自体が空になっていたことに気付かなかったのではないでしょうか?マルタという器は完全に枯渇していたのです。
関連記事 神様の愛
はたして、皆さんは、いかがでしょうか?がんばり過ぎて、自分という器が枯渇したりしてはいないでしょうか?私たち人間は器のような存在です。時に、しっかりと満たされる必要があるのではないでしょうか?ちなみに、妹マリヤはイエス・キリストの話を聴いて、枯渇した自分という器を満たしていたのかもしれません。
空のグラスはいくら傾けても何も出てきません。しかしながら、そこに水がそれこそ恵みの雨のように降り注がれれば、水はその中に満ち、そして、やがて、満ち溢れ、場合によっては、その周囲にある空のグラスをも満たすことができるのです。
関連記事 野口良哉伝道者の記事