御茶の水キリストの教会の伝道者である野口良哉さんの寄稿です。「キリストを着る」という概念を、衣替えの季節に合わせてわかりやすく解説しています。
衣替えより、心替え
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
さて六月です。いわゆる「衣替え」の季節を迎えました。私たちはこの時期、今まで来ていました冬物や春物の長袖を仕舞い、新しく半袖などの夏物を出してきて着るようになります。同じように、私たちは、時に、霊的・精神的に、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着ることが期待されているのではないでしょうか?
新約聖書のコロサイ人への手紙3章9~10節にはこうあります。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」また、ローマ人への手紙13章14節には「主イエス・キリストを着なさい。」ともあります。
新しい人を着る、キリストを着る意味
「新しい人を着る」とか、「キリストを着る」というのは、一体、どういうことなのではないでしょうか?・・・語弊を恐れないで言えば、それはある意味、洋服などの外観・外面を変えるということではなく、むしろ、その内実・心をこそ変えるということなのではないかと思います。
最初に掲げました聖句で、使徒パウロは「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」と言っています。これは言うなれば、衣替えではなく、<心替え>なのではないでしょうか?
キリスト教の世界では、心を入れ替えたり、悔い改めたりすることを「回心」と言いますが、それはまさに「心を回す」と書きます。同じ心で居続けるのではなく、心を回す、心を入れ替える、心の転換が必要であるということではないでしょうか?
いわゆる天動説から地動説への大転換を「コペルニクス的転回」と言いますが、ある意味、私たちはそれぐらいの心の大転換が求められているのです。すなわち、自分中心の天動説的な生き方から神中心の地動説的な生き方への大転換です。<信仰のコペルニクス的転回>とでも言えましょう。
ある人は言いました。「他人と環境は変えられないが、自分とその心は変えられる」。神にあって、キリストにあって、その心を大いに変えていただきましょう!