「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人のものである」マタイ5章3節。この聖句の意味を解説します。
翻訳の問題
新約聖書が書かれてた原語(ギリシャ語)では、心と訳されている単語 pneumati は、霊や息吹と翻訳される単語です。新約聖書の他の個所でこの単語 は、人間の内面、たとえば感情や思いを総括的に表現するときに使われる言葉です。ギリシャ語を少しでも勉強した牧師・先生の中には、「心が貧しいという翻訳は漢語から影響された誤訳である」と主張する方もいらっしゃいます。
そこで「心が貧しい」の翻訳を改めて検証してみます。 機械的な直訳は必ずしも正しいとは限りません。なぜなら、2つの言語の間で完璧なA=A’は存在しないからです。むしろ、翻訳者は、その言葉が文脈において、どのようなニュアンスで使われていたかを問いかける必要があります。
心の貧しいと翻訳されている ptoxoi to pneumati は、パリサイ人の心にあるプライドと対比されている表現です。マタイ5章-7章の文脈を注意深く学ぶと、5章3節のpneumati は人間の内面を指しているのが理解できます。
人間の内面を表す言葉として、日本語の中で何が一番適当でしょうか。私は「心」だと思います。結論として、「心が貧しい」が主イエス様の教えを的確に教えていると私は思います。
心が内向きになる劣等感の人
一般的には「心の貧しい」は「心が卑しい」と同じような意味で解釈されがちです。しかし、間違った解釈です。そこで主イエス・キリストを真意を考えてみましょう。
「心の貧しい」とは、心が満たされていない状態を指しています。しかし、劣等感や自己嫌悪感とはまったく違います。劣等感とは、「自分はダメ人間、自分は人より劣っている、何をやっても成功しない」といった感情です。他人との比較によって起きるネガティブな自己評価です。この様な方は、心が内側に向いて、自分と他人と比較して、自分を追いつめているのです。
参照記事 真理はあなた方を自由にする、劣等感が強い人の悪い習慣
心が神に向けられる心の貧しい人
しかし心の貧しい人の心は、神に向けられるのです。聖なる神の愛の大きさに比べて、何と自分は小さいかと感じるのです。わたしたちの心が神に向けられるとき、わたしたちは自分に誇れるものは何もない!と感じることができます。自分を本当にまっすぐ見つめると、自分には邪悪な心もあるし、自己中心的な心があることに気づかされます。心の貧しい人は、その心のすべてを包み隠さず、神に告白するのです。
自分には誇れるものなど何もないことを認める、このへりくだった気持ち、態度は、神の祝福を受けるための初めの一歩といえます。しかし、この謙虚な態度、自分の非や過ちを認める態度は、わたしたち人間には習得しがたいでしょう。なぜなら、人間には、大なり小なりプライドがあります。よく思われたいという気持ちがあります。さらに、自分を実際よりも良く見せたいという虚栄心も働くかもしれません。
しかし、自分を真正面から見て、さらに自分の至らない所を見てこそ、初めて本当の意味での向上心が生まれるのではないでしょうか。自分を偽る虚勢など必要ありません。この「心の貧しい態度」に本来の人間の本分があるのです。自分と正直に向き合う、それは創造主なる神に向き合い出会うことにつながります。
結論
イエス・キリストは、「謙虚に自分を見つめ自分の過ちがどれほどのものか、よく目を凝らしてみてみなさい」と言っているのです。わたしたちが本当に心の目を開いて見れば、自分の愚かさや罪を認めることが出来るでしょう。あなたはどうでしょうか。聖書の言葉に耳を傾けてみてください。心の目を見て、心の耳を聞いてみましょう。
心の貧しい者の特徴は、普通考えられるのとはずいぶん違うようですね。
普段人のことが気になりやすいだけに自分自身を見つめることができたらすばらしいですね。
コメントありがとうございます。随分前にコメントを頂いたのに、全く返信できずに申し訳ないです。この聖句は、信仰のはじめの一歩を教えていると思います。