マタイ5章8節「心の清い人々は幸い」を解説します。心の清い者とはどんな人でしょうか。主イエス・キリストの真意は何でしょうか。
簡単に使うってしまう表現「心が純粋な人」
私たちは、おそらく無意識に「あの人は心が純粋な人だ」などと人を評してしまいがちです。他の人から純粋に見えても、本人が知っている自身の心は、意外とくすんで曇った状態にあるかもしれません。実際、他の人の心の奥底までは見えませんから、他の人の心が本当に純粋かどうかは分かりません。
しかし、同時に、自分の心の清さは、自分では計れません。いつも純粋な動機で物事をやっている、と誰が言えるでしょうか。私たちの心に宿っている罪が、心の目を曇らせてしまいます。神と私たちの間に、罪(私たちの自分勝手な思い、考え)は大きな壁を作ってしまうのです。結果的に、その人は、もし自分の心の汚れに気づかなければ、神を知らないままの状態で生きてしまいます。
私たち人間は、他の人から見られるのを意識して、表面上は繕うことが出来ますが、心を繕うことは出来ません。自分の心を純粋にするのは、私たち人間にとって、所詮無理なことです。ではどうすれば良いのでしょうか。
- 自分の力や知恵で「純粋を取り戻す」という概念を唱えている人もいます。
聖なる神が、私たちに求める心の清さ
心の清い者になるための第一歩は、心の貧しい者になることです。原点回帰が必要です。5章3節ー12節では、それぞれ心の持ち方が示されています。しかし、この順番にも意味があります。
原点回帰:心砕かれた、心の貧しい者になる
心砕かれた者になって、はじめて神がその人に清い心を造ってくださるのです。この原則は、詩篇51篇においてダビデが告白しています。
神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。…もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。詩篇51篇12節‐19節
特にこの混乱、混迷している世の中では、いろいろな声が聞こえてきます。どの声が正しいのか、迷ってしまいます。ますます、神の真理を知ることは難しくなります。ではどうすれば神を見るために、清い心の人になれるのでしょうか。
神を心から信じて罪、自分の自己中心的な態度を悔い改める、これが最初のステップです。神は、このような人の心を清めてくださいます。さらによいことは、神の清めの業によって、私たちは神を本当に知ることが出来るのです。良い循環です。神の教えに心から従えるようになります。このような人は本当に幸せです。神の祝福を受けるからです。
まとめ
「心の清い人は幸いです」の意味を解説しました。マタイ5章3節‐12節には、幸せの判断基準が書かれています。人は誰もが幸福になりたいと願っています。その幸せを求めるために、人はもがき苦しみますが、しかし、その「幸せ」を与えてくれるのは神ご自身です。幸いは、私たち自身が掴み取るものではありません。むしろ神から与えられるものです。創造主なる神を、心から信じてみましょう。良い結果が必ずあります。