コンテンツへスキップ 投稿日:2023年1月9日/更新日:2025年2月16日

ローマ1章26-32節、人間が失ったID

山に登ろうとする人を助ける男性

人類の歴史において、人間が失ったIDとは何でしょうか。人間は創造主なる神様を礼拝せずに、偶像礼拝をするようになり、神様によって与えられているIDを失ってしまいました。

それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。ローマ1章26-32節 聖書協会

1.神様によって一個人として創造されたID

神様は、人間を男と女に創造されました。つまり、人間は男性と女性に分けられ、個別のIDが与えられている事を示しています。一人一人、別個の人間として創られたのです。しかし、人間は罪ゆえに、このIDを失ってしまいました。

ローマ1章24ー28節は、同性愛について語っています。同性愛は、今に始まったことではありません。古代の大昔からある、人間たちの罪深い行いです。男同士が性的関係を持つ、女同士が性的な関係をもつといった、神様の創造の計画から離れて、生きるようになってしまったのです。しかし個人のIDを失った現象は、同性愛だけではありません。

人間は単なる動物の一種と考える人たちがいます。人間は、犬や猫と何ら変わりがない動物と考えられています。この考え方によれば、土の中にいるミミズは人間と元は同じなので、人間とミミズは何ら変わりはないのです。動物社会が弱肉強食なように、人間社会も弱肉強食が当たり前だと考えているのです。強い者だけが生き残るのが、人間社会でも暗黙の了解になっています。

しかし、このような考え方自体が、動植物と区別されて創造されたというIDを放棄しているのです。人間たちは、神様が与えて下さったID、素晴らしい恵みをゴミ箱に捨ててしまっています。

人間が、この素晴らしいIDを失ってしまうと、何が起こるのでしょうか。人間は、神様から離れ自分勝手に物事を考えるようになります。何が正しくて、何が悪いのかは、自分のご都合主義によって決められてしまいます。IDがないから、自分の立ち位置がわからない、どこへ行っていいのかも、わかりません。自分がどこから来て、どこへ向かおうとしているのかも、知らないのです。

2.神様に愛されているIDを失う

神様は、私たちが神様から離れても、私たちを愛しておられます。この愛に変わりはありません。しかし、私たち人間の方から、大切なIDを捨ててしまったのです。つまり神様の愛を知らない存在になってしまいました。IDを完璧に失ってしまいました。

この愛を失ったゆえに、私たちは常にどこかで愛されたいと思っているのではないでしょうか。失ってしまった愛を、取り戻したいといつも思っているではないでしょうか。親の愛だけでは足りません。何かもっと大切な愛がどこかにあると思っているのです。望郷の念、故郷を思うように、私たちは神様に渇望しています。しかしそれは間違った方法で現れてしまいます。

神様によって創造された私たちは、その大切なIDゆえに、本来、謙虚に自分を愛せはずです。だから、自分を愛すように、隣人を愛しなさいと教えられているのです。これは、神様が与えているIDに基づく、本来持つべき愛です。ところが、堕落した私たち人間は、この謙虚な愛を持てなくなってしまいました。自己中心的な偏屈な愛になってしまったのです。

罪人である人間には、認めてもらいたいという承認欲求があります。もっと強い場合には、自己顕示欲になります。自分が一番になりたいという自己中心的な愛が根底にあるのです。そのような人間を、私たちは決して良く思いません。嫌います。しかし、自分がそのような自己中心的な人間になっていることにも、気づいてはいないのです。人を嫌うということは、自分を嫌うことにもつながります。人間は、何と自己中心的な愛を持ちながら、その自己中心的な態度を嫌う矛盾した存在になってしまったのです。

こんな罪深い人間は、最後のIDも失ってしまいます。

3.神様に似せられた共同体としてのID

三位一体の神様、つまり父なる神様、子なる神様、聖霊なる神様は、神様に似せて、人間を共同体として創造されました。個人個人、一人一人を創造しましたが、それは共同体として創造されているのです。しかし、人間はこのIDもゴミ箱に捨ててしまいました。

ローマ1章が語るように、自分勝手で自己中心的な態度によって、この共同体の人間関係を壊してしまったのです。ローマ1章は、現代の日本社会を説明しているように思えますが、数千年前からの人類の歴史を物語っているのです。人間の愚かさに変わりはないからです。罪深い人間に変わりがないのは、不思議なことはではありません。

現代社会は、スマホの影響からか、人間関係がさらに希薄になっています。「4人家族がファミレスに入ってきた。座ったら、まず4人ともスマホを見る。その間、会話はない。オーダーしなければならないから、スマホは少し中止。オーダーが終わると、4人ともそれぞれのスマホに戻る。」友達との人間関係も親子関係も、現代社会では崩壊してかけています。共同体という意識がなくなってきてしまったのです。

人間の無意味な努力 vs イエス・キリストの救い

人間は、人間のIDを自分たちの知恵によって、何とか取り戻そうとしています。共同体のIDは、オリンピックであったり、様々な国際会議によって平和を取り戻そうとしています。また個人としてのIDは、自分自身を確立することによって、謙虚に自分を愛せるように、努力しています。しかし、どれもこれも、人間には不可能なことです。

主イエス様に出会う前まで、私たちは失ったIDゆえにもがき苦しんでいました。主イエス様は、この状態を罪の奴隷と言っています。誰も、自分が奴隷とは考えたくはありませんが、私たちは実際に悪魔によって操られていたのです。主イエス様は、私たちを悪魔の奴隷状態から救ってくださったのです。現在進行形で、継続的に救ってくださっています。感謝しよう。主イエス様をいつも見上げて生きていきましょう。

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「ローマ1章26-32節、人間が失ったID」への2件のフィードバック

  1. クリスチャンになる前もクリスチャンの今も、日々心の中に絶え間なく罪は宿ります。でも決定的に以前と違うのは、御言葉を読む度に神さまが御言葉を通して教え正してくださいます。希望も与えられます。今この時も主に従って歩めますように。

    1. コメント、ありがとうございます。感謝します。メールにも書きましたが、7月に数名の方々が横田を訪れます。宣教師がその中から生まれ、私たちとともに働いてくださるようにお祈りしています。

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