クリスチャンになると、不思議なことがたくさん起きます。予想外の展開になることがよくあります。その中でも、クリスチャン人生の中でも、一番不思議なことがあります。今日は、その一番不思議なこと、主イエス・キリストと共に死んで新しい人生を生きる不思議について考えてみましょう。
ローマ6章3-11節を読んでみましょう。クリスチャンは主イエス・キリストと共に死んで、主イエス・キリストによって新しい人生を生きると解き明かしています。では、主イエス・キリストと共に死んで新しい人生を歩むとは、どのような意味でしょうか。
キリストと共に死ぬ意味
私は、今年で66歳になりますが、相当な頑固者なので、キリストと共に死ぬ意味が分かりませんでした。最近になって、やっと少しは理解できたかなと思っています。
私は、自我が強く、愚か者です。天の神様も呆れているでしょう。多くの失敗を経験して、神様に祈ります。天の神様は、私が祈るたびに言っています。「またお前か。まだわからないのか」と言っています。私は同じような失敗をして祈り続けますが、忍耐強い神様は、私を鍛錬してくださり、辛抱強く祈りに応えて下さっています。何度、私がつまづいても、憐れみをもって教えて下さっています。
皆さんも、多少なりとも私と似た所があるかもしれません。もしかしたら、クリスチャンは、みんな同じようなことで悩み、躓いているかもしれません。実際、キリストと共に死ぬのは、一生、私たちが求めるべき、クリスチャンの原則ではないでしょうか。
主イエス様の命令 「自分を捨てて十字架を負う」
9:21 イエスは弟子たちを戒め、… 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」 9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
ルカ9章21-23節 聖書協会
主イエスは、自分が十字架にかけられ死ぬことを預言されます。その後、私たちにも、「あなたがも十字架を負いなさい」と。十字架は死を象徴しています。具体的に死ぬとは、自分を捨てることです。自分の知恵や力に頼っている私たちにとって、自分を捨てるのは至難の業です。
日本語には、「バカは死ななきゃ、治らない」という言葉があります。愚か者は、死ぬまで同じような失敗、愚かな行いをするので、死ぬまで治らないという意味です。クリスチャン人生でも同じです。自分自身に対して、罪に対して死ぬ、自分の愚かさに対して死ななければ、クリスチャンとして生きていけません。
自分を捨てるとは、生活のすべての分野
私たちは、それぞれ違った欠点があったり、変えるべき習慣があります。私の場合は、お酒でした。私の両親は、酒場を経営していました。そんな理由で、十代の頃からお酒を飲み始めました。私が子供の頃から聞いた言葉は、酒は飲んでも呑まれるなです。まさにそれを実践して、お酒を飲んでいました。変な子供だったと思います。
しかし、自分にとってアルコールを止めるぐらいでは、自分を捨てることになりませんでした。自分を捨てるとは、生活のすべての分野に及びます。自分の言動、罪深い感情、思い、考え、生活習慣、人を自分のように愛せない自己中私的な態度、神様を生活の中心に置かない態度、すべてを変えなければなりません。
私は自分でも驚くほど、話下手です。だから礼拝メッセージをもっとうまく話させるように祈っています。しかし、もっと大切な祈りがあります。
聖書を片手に礼拝メッセージをしていても、福音を語らず、ただ単に自分の意見を言っているのであれば、やっぱり、自分を捨てていることになりません。私が、もし福音を語らず、自分の意見を言っているのであれば、神様が私を厳しく裁いて下さるように祈っています。こっちの方が、うまく話すよりも数倍大事です。
主イエス・キリストと共に生きる意味
自分を捨てるとは、神様に対して心の底から告白することです。「あなたの思い通りに、私は生きていきます」、と。しかし、自我は、雑草のようなものです。根っこから抜き取っても、化学薬品で完全に殺してもまた生えてきます。1週間もすると、知らぬ知らぬ間に、また生えてきます。自我が神様の御心よりも強くなってしまう時があります。そのたびに、悔い改めて、自分を捨てて、この雑草を根っこから殺さなければなりません。
では自分を捨てて、主イエス・キリストと共に生きる意味を、もう少し突っ込んで考えてみましょう。
神様に白旗をあげて、人生を白紙に戻して、新しい人生が可能になります。一度、人生を白紙に戻さない限り、中途半端なクリスチャン人生になってしまいます。ただその白紙の状態は、ある日突然やって来るものではありません。まず考え方を変え、行動を変えます。そして最後に、心が変えられます。このプロセスは、主イエス様が、私たちの人生に介入して働いて下さり、徐々に白紙の状態になるのです。主イエス様の聖霊が入り、新しいロードマップを書いてくださいます。私たちは、ただひたすら、このロードマップに従って歩むのです。
この世には、いろんな生き方があります。その生き方で、どれを選ぶのかは、私たちが決めることができます。主イエス様の道をまっすぐに見て生きていくのか、それとも他の人の生き方を見て真似るのか、それは自由です。でも一つだけ、確実にわかっていることがあります。それは、主イエス様の道が一番であり、もっとも良い生き方であること。最高の生き方であること。一番幸せな生き方であること。
自分を捨てて十字架を負う人生
主イエス様は、自ら十字架を負って死なれました。私たちの罪のために、犠牲となって死なれたのです。それだけで、十字架の死の意味は終わっていません。私たちにも十字架を負いなさいと教えられています。主イエス様は、神様を信じ愛することはどんな意味なのかを、身をもって教えてくれたのです。私たちが自分を捨てて、十字架を負って、初めて神様にお仕えすることができるのです。
しかし、主イエス様のように、自分を捨てて十字架を負う事は、罪深い私たちにとって、簡単なことではありません。それでも主イエス様は、私たちを招いています。私たちが、最高の人生を生きるために、もっとも幸いな人生を生きるために、主イエス様は招いて下さっています。
主イエス様は、今、私たちと共に、聖霊として、この礼拝に臨在しておられます。私たちと共にいます。そして私たちに言っています。「自分を捨てて、十字架を負って、私について来なさい」と。私たちはどのように答えるべきでしょうか。もちろん、私たちの答えは、「はい、ついて行きます」です。今週、一週間も、主イエス様について行きましょう。
ローマの手紙からのメッセージ
ローマ人への手紙の歴史的文化的背景、古代ローマ教会の成り立ち、信仰によって互いに励まし合う、神様は人を裁かず待っている、神様の裁きの基準、罪深い人間にも希望がある、新しい契約の要、信仰義認の法則、キリストによって成長する、狂った世の中での希望、死んで新しく生まれる意味、クリスチャンの違った意見、ローマ人への手紙の著者 使徒パウロの信仰と人格