コンテンツへスキップ 投稿日:2023年4月5日/更新日:2025年1月16日

ローマ6章15-23節。義の奴隷

2つの道

クリスチャンは義の奴隷になるって本当でしょうか。言い換えれば、主イエス様のしもべ、召使いです。主イエス様に学び、主イエス様に仕える人です。主イエス様のしもべ、召使いになることについて考えてみましょう。

2種類の生き方 「どっちかを選ぶ」 

では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。
6:20 あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

ローマ6章15-23節 聖書協会

この聖句を簡単に説明すると、私たちの人生には2種類の生き方があるという事。一つは、主イエス様に仕え召し使いになる生き方、もう一つは、自分の罪に仕える生き方です。しかし、極端だと思う人もいるかもしれません。もっと深く考えてみましょう。罪に仕える生き方とは何でしょうか。また神様に仕える生き方を、もっと具体的に考えてみましょう。

主イエス様は、私たちの人生の生き方を、2種類に分けて説明します。たとえば、富と神様に仕えることはできない。富に仕えるか、神様に仕えるかどちらかだと言っています。また、この世には、愚かな人と賢い人がいる。私たちはみんなどちらかに入るとも言っています。

父なる神様を信じ主イエス様を信じるか、信じないか。最終的には、神様の祝福を受けるか、裁きを受けるかに、私たちは分けられます。これでは極端だと考えてしまうかもしれません。白黒はっきりし過ぎて、グレーゾーンがありません。中間点がまったくありません。

しかし、私たちが生きている間、憐れみ深い神様は、どっちつかずの中間点を用意しています。私たちがどっちつかずで迷っている時、主イエス様が忍耐強く待っているという中間点です。

私たちは、2つの生き方、どちらかを選ぶことになります。選びたくないと言っても、最終的には選ばなければなりません。罪に仕える生き方と神様の義に仕える生き方、道は2つしかありません。

神様の器、神様の道具になる  

ローマ6章12-14節を読んでみましょう。この聖句は、神様の器、神様の道具として生きなさいと教えていますが、少しこれではわかりにくいと思います。もう少し具体的に考えてみましょう。

この物差しは、長さを測る目的があって造られています。目的通りに使えば役にたります。しかし、悪用も出来ます。道具と道具の使い方、どちらが大事でしょうか。道具その物を正しく使わなければ、意味がありません。道具の使い方の方が大事です。

人間の命も同じです。命を使い方を間違えれば、良いことはありません。主イエス様が命の使い方を教えて下さいます。そして、初めて私たちは、神様の器になっていきます。神様の御用のために使われる道具として、生きていくのです。

そのプロセスで、神様の祝福を受けながら、霊的に成長していくのです。喜びの人生です。

主イエス様の御言葉を聞く素直な信仰  

プロ野球の世界に、多くの人たちが毎年入っていきます。その中でも才能を持っていながら、大成しない、成功しない人たちがいます。才能があっても大成しない、成功しない選手の特徴は何か?関する記事を読みました。その特徴の一つが、意外にも、コーチのアドバイスに素直に耳を傾けないことだそうです。

コーチの教えを聞いて、「はい。わかりました」と言いますが、そのアドバイスを試しもしない、実践もしない。試行錯誤もしません。自分のやり方でやりたいという頑固さがあるのです。言っていることとやっていることが、まったく違うのです。

20代の時、わたし自身にも頑固な面がありました。その頑固さは、私の場合、例外なく悪い影響がありました。人の話を聞けない頑固な性格は、良い場合もありますが、ほとんどの場合、悪い影響が出てきます。いくら言っても聞いてくれないのなら、コーチも周りの人もみんな諦めます。

クリスチャンになり主イエスの教えを聞く場合にも、同じことが言えないでしょうか。主イエス様の教えを素直に聞けない人は、神様の祝福を半分しか受けていません。もっともっと成長できるのに、神様の祝福を無駄にしています。

主イエス様の召し使いになるプロセス  

では神様の召使になるプロセスを、もう一度、他の聖句を読んで考えてみます。2テモテ2章20-26節を読んでみましょう。この聖句が言っているように、器にはいろいろな種類のものがあります。よく使う器、奥の方に片づけておいて、あまり使わない器もあるでしょう。神様の御用のために、私たちが神様の器になることは、神様の御心です。クリスチャンであれば、誰もが神様の器として、生きていくのが御心です。ではプロセスをもう少し学んでみましょう。

神様の器になりたいと希望を持ちましょう。良い器になりたくない人が、無理やりさせられることはありません。神様の力をいただきましょう。「神様の器にしてください」と祈りましょう。そうすると何が起きるのでしょうか。神様が働いてくださいます。私たちの心が動かされ、主イエス様にもっと学ぶようになります。主イエス様の愛と平安が訪れるのです。

神様の器になるためには、日々の練習が必要です。プロ野球の選手は、その野球のスペシャリストです。私たちクリスチャンはどうでしょうか。私たちは主イエス様について行くプロ、スペシャリストです。プロスポーツの選手が、そのスポーツのために、毎日練習するように、私たちも主イエス様について行くために、毎日練習します。

神様に自分自身をいけにえとしてささげる  

自分の体を、神様のいけにえとして、ささげるようにしましょう。なぜでしょうか。私たちの肉体、手や足や口、すべて神様の御用のために使われるからです。朝起きた時から、クリスチャンの練習は始まっています。良い睡眠がとれたことを感謝し、また浅野食事の時に感謝の祈りを捧げます。朝の挨拶も、主イエス様の名によってしましょう。

このような行いが、実は神様を礼拝していることであるとこの聖句は教えています。仕事をしていても、主イエス様に感謝をしましょう。仕事で体を使えることに感謝し、また良い環境で仕事が出来ていることにも、神様に感謝するのです。このプロセスで、私たちの心は変えられていきます。何が神様に喜ばれる事なのかを知ることができるのです。

今日は、神様の義の器、神様の道具になることについて考えてみました。人生の道には、2つしかありません。神様に仕えるか、それとも自分の罪に仕えるか、主イエス様に習い賢い人になるのか、それとも愚かな人になるのか、神様の祝福を受けるのか、それとも神様の裁きをうけるのか、2つの生き方しかありません。しかし、私たちがどちらを選ぶか、迷っている時、主イエス様はじっと忍耐強く待っています。今すぐに、迷わず、主イエス様の下に行きましょう。

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