コンテンツへスキップ 投稿日:2023年8月22日/更新日:2023年8月19日

神様の救いの計画とイスラエル

ローマ1‐8章までの要約

今まで神様の救いの計画について話してきました。神様は主イエス・キリストに信仰を持つ人を、正しい義なる人と認め、罪を赦して下さり、聖霊を与えてくださっています。これがローマ1‐8章までの要約です。

9-11章は、引き続きテーマは、神様の救いの計画ですが、特にイスラエル民族に焦点が当てられています。1世紀のローマ教会に戻ったつもりで、1世紀のクリスチャンがもっていた疑問をいっしょに考えてみましょう。

ローマの教会の人々の疑問

1世紀のローマ帝国のクリスチャンは、人種的にはユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがいました。ローマの教会は、多くが異邦人のクリスチャンで、おそらく10-20パーセントくらいのユダヤ人クリスチャンがいたと考えられています。

特にユダヤ人クリスチャンの間で、疑問がわいたのです。なぜ、異邦人クリスチャンの方が多く、イスラエル民族のユダヤ人クリスチャンが少ないのだろうかと考えていたのです。イスラエル民族は、神の民として選ばれたにもかかわらず、1世紀後半ではユダヤ人クリスチャンが極めて少なくなっていったのです。その疑問にパウロは、ローマ9章―11章で答えています。

わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。

ローマ9章1‐5節 聖書協会

パウロは、本題に入る前に、イスラエルが受けた神様の祝福をリストにしています。神様の民として契約を結び、神様の律法と約束を受けたのです。そして何よりも、主イエス様は、イスラエルの子孫でした。この上ない神様の恵みです。パウロは、なぜこのように、イスラエルが受けた祝福をリストにしたのでしょうか。

パウロがこれからいう事が、イスラエルの民であるユダヤ人クリスチャンにとって、嬉しい事ではないからです。

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イスラエル民族のすべてが、イスラエルではない

ローマ9章6-13節によれば、イスラエル民族のすべてが、神様の民であるイスラエルではありません。これは、ユダヤ人クリスチャンにとっては、衝撃的な言葉でした。アブラハムの息子であるイサクには、2人の息子、ヤコブとエサウがいました。そのうちの一人、ヤコブからイスラエル民族が生まれました。ヤコブは、神様が約束していた祝福の人となったのです。

「イスラエル民族がすべてが、イスラエルではない」という理由には、もっと重要な理由がありますが、それは最後に説明します。

「イスラエル民族のすべてが、イスラエルではない」という神様の計画に、何か落ち度があったのでしょうか。ユダヤ人クリスチャンは、不公平ではないかと思ったかもしれません。パウロは、そのような疑問にローマ9章14-18節で答えています。

パウロは、神様の救いの計画が、神様のわざであるというのです。神様の権威によって、人々を召し出したのです。私たち人間の意志や力によって、神様の救いのわざは成されてはいません。

神様の救いのわざには、続きがあります。ユダヤ人ではない私たちに関係していることです。

神様の救いの法則

ローマ9章24-28節を読んでみましょう。

天地万物を創造された神様は、イエス・キリストを生まれさせるために、アブラハムを選びました。さらにアブラハムからヤコブ、ヤコブからイスラエルの民を生まれさせたのです。神様は、イスラエルの民を神様の民として選び、律法によって契約を結びました。

しかし、神様の救いのわざは、イスラエルだけで終わった訳ではありません。私たち異邦人にも救いの手を差し伸べてくださったのです。唯一の神様を知らずして生きてきた、自分の思い、考えで、勝手に生きていた、偶像礼拝もしていた、私たち異邦人にも声をかけてくださったのです。神様の救いのわざには、さらに続きがあります。

ローマ9章30-32節を読んでみましょう。

イスラエルにとって、神様の契約の要は、律法でした。律法を守ることによって、神様の民としてアイデンティーを守ろうとしたのです。しかし、これが間違った方法でした。神様が求めていたのは、信仰です。神様との信頼関係です。

ですから、パウロはローマの手紙の始めに次のように書いています。

 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

ローマ1章16-17節

神様によって正しい人と認められる人は、信仰によって生きるのです。この原則は、古い昔から、旧約聖書の時代からずっと続いているのです。そこをユダヤ人たちは理解していなかったのです。

律法を持たない異邦人が救われた理由はなんでしょうか。私たち異邦人には、律法は与えられていません。私たちが唯一いただいたものは、主イエス・キリストを信じる信仰だけでした。この信仰によって、私たちは救われたのです。ところが、イスラエルは、信仰によって神様を求めませんでした。律法によって神様を求めたのです。

主イエス・キリストに信仰をもった人たちが、本当のイスラエルなのです。この原則は、ユダヤ人も異邦人も関係ありません。すべての人間は、主イエス・キリストを信じることによって、神様の祝福を受けるのです。

キリストが律法の目標、律法の終わり

兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。

ローマ10章1‐4節

この記事で皆様にお伝えしたいことは、今読んだ聖句の最後の言葉です。

キリストは、律法の目標と訳されていますが、終わりという意味もあります。つまり、キリストは、律法の目標であり、律法に終わりをもたらした方です。主イエス様に信仰を持つ者が、神様に認められるからです。

「キリストは律法の目標、律法の終わり」には、大まかに分けて3つの意味があります。(1)神様の契約の要です。(2)キリストは、私たちの目標であり、人生の師です。(3)キリストの生き方と死によって、律法を終わらせました。

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招きの言葉 キリストの十字架とクリスチャンの十字架

人々のために自分の命を犠牲にしたのです。神様の命令に従って、キリストは十字架にかけられ死にました。私たちの罪を贖うためです。ここで神様の命令は終わっていません。私たちも、十字架を背負って、人々のために生きなさいと教えています。十字架の人生こそ、神様の御心なのです。一生涯かけて、目標にして生きていくのです。

私たちの教会は、主イエス様が示された教会になっているでしょうか。主イエス様に喜んでもらえるような教会になりましょう。キリストの弟子として、生きていきましょう。

私たち横田キリストの教会は、大きな恵みを頂いて来ました。さらに、大きな未来が約束されていると私は思います。一番大切なことは、私たちが主イエス・キリストから目を離さないことです。この世には、いろいろな雑音が渦巻いています。クリスチャンであってもキリストから目を離せば、その渦に巻き込まれて霊的な目を失ってしまいます。

常に主イエス様に信頼して、信仰、希望、愛を高めていきましょう。主イエス・キリストが再臨する時まで、しっかり主イエスに根付いて過ごしましょう。

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