ローマの手紙3章21-26節から、新しい契約の要はキリストの十字架であることを解説します。主キリストから目を離しては、キリスト者として生きていけません。
旧い契約から新しい契約へ
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
ローマ3章21-26節 聖書協会
旧い契約下でイスラエルの人々は、神様の契約の律法が与えられました。律法とは日々の生活をどう生きるのかが決められた約束事、決め事です。その律法と預言者によって立証された神様の義が示されたと、この聖句は言っています。神様の義とは何でしょうか。
それは、主イエス・キリストを信じることにより、すべての人間が神様の子供として受け入れられるということです。つまり主イエス様への信仰によって、私たちが神様の恵みを受けているのです。この聖句には、イスラエルだけでなく、人間なら誰でも与れる新しい契約が書かれています。
イスラエルに与えられた旧い契約の律法
天の神様は、数ある民族の中からイスラエルの民を選び、神様の契約の人々としました。古代の時代、他の民族が知らないところで、神様はイスラエルの人たちだけと契約を結びました。
契約の要として、律法が与えられたのです。この律法には、ある特殊な規則がありました。それは、人が悪いことを行った場合、つまり神様の対して罪を犯した場合には、その代償としていけにえを捧げなさいと命令されていたことです。イスラエルの人々は、罪を犯すたびに、羊をいけにえとしてささげたのです。
しかし、この旧い契約に終わりが来ました。天の神様は、すべての民族と契約を結ぶ新しい契約を始めたのです。
信じる者すべてに与えられる新しい契約
天の神様は、なぜ他の民族を除外して、イスラエルの民族を選んだのでしょうか。すべての人間に救いのチャンスを与えるために、イスラエルを神様は選びました。イスラエルのユダヤ人として、神様の一人子、主イエス・キリストは生まれました。この方が、人類の救い主です。私たち人間に生き方を教えて下さる方です。
この方を信じる人は、誰でも神様の救いの恵み、祝福に与ることができます。例外なくすべての人にそのチャンスがあるのです。この世の終わりが来る時まで、主イエス・キリストは、すべての人間を招いています。
すべての人間の歴史と時代を超えて、すべての文化を超えて、主イエス・キリストは、すべての人間に手を指して宣べています。とは言っても、人間には、主イエス・キリストを簡単に受け入れられない大きな問題があるのです。
すべての人間が抱えている問題
すべての人間が抱えている問題とは何でしょうか。それはこの世の悪です。私たち人間が造り出しているこの世の罪悪です。聖書は、この世の悪は人間の罪によって作り出されていると言っています。
この罪によって人間は支配されています。罪ゆえに、人間は傷つけ合い、殺し合い、騙し合い、罵り合うのです。言うまでもなく、戦争やいつの時代でもあり、犯罪は毎日起きています。罪ゆえに、人間は自分を傷つけるような行いをします。自分の心を汚します。そして、自らを苦しめているのです。
主イエス様は、このような状態を罪の奴隷と言っています。奴隷には自由がありません。やりたいことができません。逆にやりたくないことをしてしまいます。正しいことを知っていても、その正しいことができません。
自分にとっても、他の人にとっても良いことだとわかっていても、それが出来ないのが人間です。罪の奴隷の人間です。キリスト自身が、私たちの人生に介入して、罪の奴隷状態から解放してくださるのです。心の重荷を取り去ってくださいます。しかし、私たちはこの方を信じる必要があります。
新しい契約の要はキリストの十字架
天の神様は、人間の罪を見て悲しんでおられます。イスラエルの人々は、その罪の代償としていけにえをささげました。罪を犯すたびに、そのいけにえがささげられました。
しかし新しい契約では、イエス・キリスト自身が自ら十字架にかけられ、私たちの罪のいけにえとして、命をささげました。今、私たちはこのイエス・キリストを信じれば良いのです。他の誰でもありません。ただイエス・キリストだけを信頼して生きていくことこそ、人間が生きる道です。主イエス・キリストは、ヨハネ14章で次のように言っています。
心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。…わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
ヨハネ14章1節、6節
日本語翻訳ではわかり難いですが、「わたしが道であり、真理であり、命である」の本来の意味、聖書が書かれているギリシャ語の本来の意味は、唯一の道であり、唯一の真理であり、唯一の命という意味です。つまり、主イエス・キリスト以外に、神様との関係をもつことはできないという意味です。
クリスチャンになって、主イエス・キリストから目を離していたら、どんなクリスチャンになるでしょうか。キリストに目を向けずに教会の礼拝に出席していたらどうでしょうか。教会の建物がきれいとか、圧倒的な迫力があるとかという理由で、礼拝に出席していたら、本当の礼拝と言えるでしょうか。
また主イエス・キリストから目を離して、牧師に目が行っていたら、本当のキリスト者と言えるでしょうか。牧師の話がうまい、牧師がカッコイイとかという理由で、教会を選んでいたら、本当の礼拝になりません。教会に行っているというだけで、主イエス・キリストの名によって、神様を礼拝しているとは言えません。
新しい契約 すべての祝福が主イエス・キリストにある
エペソ1章は、主イエス・キリストを通して与えられた神様の祝福と恵みを説明しています。この短い聖句に、キリスト(御子)は10回出てきます。なぜでしょうか。それはすべての恵みが、主イエス・キリストを通して与えられていることを強調しているからです。
主キリスト以外に、救いの道はありません。もし私たちが、主キリストから目を離したら、その救いも消えてしまうでしょう。神様の祝福も恵みも、私たちからなくなってしまいます。
キリスト者が神様の子供として生きていくために、もっとも大切なことは何でしょうか。教会の礼拝に出席することは大事です。聖書を学ぶことも大切です。しかし、主キリストから離れて、教会に来ても、聖書を学んでも意味がありません。教会に来る理由は、主キリストがいるからです。聖書を学ぶ理由は、御心を知り主キリストに従って生きていくためです。
私たちの生活は、すべて主キリストを中心に回っているのです。隣人を愛するのも、親切を施すのも、主キリストの名によって行います。食事をするときも、主キリストの名によっていただきます。
信仰によって生きるとは何でしょうか。天にいらっしゃる主イエス・キリストを信じて生きていく、これが信仰に生きる真髄です。この方は、いつか再臨されます。その日は、刻一刻、一日ごとに近づいています。毎週、主の晩餐をいただくごとに、その日は近づいています。その日が来るまで、私たちが信仰深く、常に主キリストに目を向けて生きていけますように。
ローマの手紙
ハレルヤ、アーメン。大切な要点が集結された学びです。感謝いたします。今日もこの先もキリスト者として主のみこころの中を歩めますよう祈りつつはげみます。
いつもありがとうございます!聖書を真摯に学ぶお二人の姿に、心うたれます。