神の民であるクリスチャンは地の塩であり世の光であると、キリストはこの世でのクリスチャンの役割を説明しています。1世紀のイスラエルの文化を考慮にいれて、キリストを真意をより深く解説します。21世紀のクリスチャンは、果たしてこの役割をまっとうしているでしょうか。
クリスチャンは地の塩の意味
まだ貨幣がない古代の時代では、塩が物々交換の代わりに貨幣の役割をはたしていました。それくらい古代では、塩は貴重でした。また塩は、食物を保存するために用いられていました。今のように冷蔵庫のない時代です。このように塩は、当時の人たちの生活にとって欠かせないものでした。キリストは、その塩に神の民をたとえています。
この世には悪が蔓延しています。人の心は、目に見えない形で病んでいます。人間の愚かさは、キリストが生きた2000年前も今も変わりはありません。だから、神は神の民にこの世での特別な役割を与えているのです。神の倫理観と道徳観によって、この世がこれ以上、腐敗しないようにするミッションを、神の民であるクリスチャンは与えられています。
どのように神の倫理観と道徳観を、人々に伝えることができるのでしょうか。会う人すべてに聖書を読んで聞かせ、牧師が説教するように話すのでしょうか。そんなことをしたら、反感をかうだけです。むしろ、クリスチャンの誠実な正直な生き方が、神の倫理観と道徳観を示すのです。クリスチャンの親切に示された愛によって、神の愛を分かち合うことができます。神の無条件の愛は、クリスチャンの生き方にも示されているからです。
クリスチャンが塩気をなくしたら、どうなるのでしょうか。キリストから離れてクリスチャンは、実りある人生は歩めません。キリストは、ぶどうの木です。クリスチャンは、木の枝です。キリストにつながっていない実を結ばない枝は、外に投げ捨てられ捨てられてしまいます。同様に、塩気をなくしてしまった人にも神によって裁かれてしまいます。
塩気をなくしたクリスチャンとは、マタイ5章1節‐12節で教えられている生き方をしていない人です。心の貧しい人ではなく、プライド高き人です。神の正義ではなく自分の正義に飢え渇いている人です。クリスチャンとしてのIDをなくしてしまったのです。
神の民は世の光の意味
1世紀の文化ではランプの明かりは、非常に貴重でした。ランプの明かりがなければ、夜は真っ暗です。今のようにスイッチを入れれば、電気の明かりがいつもある時代ではありません。その明かりによって、人々は夕飯を食べたり、家族の団欒を楽しむことができたのです。その明かりにキリストは、神の民をたとえています。
旧約聖書には、イスラエルの人々が諸国の光としてたてられたと書かれています(イザヤ42章6節)。ユダヤ人の一般庶民でも光の概念を知っていました。それは、1世紀前後のユダヤ教から読みとれます。
ユダヤ教の多くの文献は、光と暗闇のテーマで書かれています。光は神を象徴しており、暗闇は悪を象徴しています。1世紀にキリストのメッセージを聞いたユダヤ人たちは、神の民が世の光であると聞いて驚きはしませんでした。むしろ、ユダヤ人たちは、キリストの他の言葉に驚いたのです。
キリストは、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8章12節)と言っています。イスラエルの人々全体が世の光ではなくて、「わたしが光である」とキリストは言ったのです。神から直接、光の権威を与えられた者として、キリストは来たと宣言したのです。キリストは、父なる神と同じ権威をもち、従う者が暗闇の中を歩まず命の光を持つと明言しました。キリストに、多くのユダヤ人教師たちが怒りを覚えました。
キリストと神の民の関係は、太陽と月の関係に似ています。月は自分で輝くことは出来ません。月自体に光を放つ力はないのです。太陽の光を受けて光を放っているだけです。神の民であるクリスチャンも同じです。キリストから離れては、クリスチャンは何もできないのです。
神の民の善行によって、神の御名が褒め称えられる
神の民であるクリスチャンが、地の塩として誠実に正直に愛を持って生きるとき、神の倫理観と道徳観がアロマの香りのように人々に広がっていきます。また世の光として、善い行いをするとき、神の御名がほほめたたえられます。
しかし、はたして21世紀のクリスチャンは、この大切な役割をこの世でやり遂げているでしょうか。マタイ5章1節‐12節で示された神の民の心と態度を忘れては、地の塩と世の光の責任を果たすことはできません。今日、神の義ではなくて、自分の信仰の義を求めているクリスチャンが大勢いるように思えます。どんな教理の違いにせよ、クリスチャン間の争いに終わりはないようです。この世に戦争の終わりがないのと同じです。
すべてのクリスチャンが、主イエス様にあって一致できるように、心からお祈り申し上げます。