コンテンツへスキップ 投稿日:2022年10月29日/更新日:2023年5月5日

強がる人と弱さを認める人

自分の弱さを認める勇気

強がる人と弱さを認める人は、どっちが強いのか。どんなに強がっても、人間は所詮弱い者。それをわかっていても、自分の弱さを認めるのはなかなか難しい。しかし、ここに真理がある。自分の弱さを認める勇気で、逆に強くなれるのだ。これは聖書が教える真理。どんな人にも当てはまる人生の教訓である。

強靭な精神力をもったスポーツ選手がやってしまう過ち

自分の弱さを認める勇気

スポーツ選手は、身体を鍛え苦しい練習にも耐える精神力を養っている。ところが、一流のプロスポーツ選手が、麻薬や飲酒にはまっていたというニュースを時々耳にする。素人目には、「それ程の精神力を持っているのであれば、どんなことにも耐えられるだろう」と考えてしまう。しかし、現実は違う。

数年前、日大アメフト部の選手が悪質タックルを行った、、、それは監督、コーチがやらせていたということで、大変な騒動になった。遠い昔の話だがよくある話でもある。人間の弱さについて、3つの点を見出すことが出来る。

人間の心はどんなに自分で鍛えたつもりでも、どこかで隙があり弱さがあるのだ。悪質タックルをした選手も自分の弱さゆえに、監督とコーチの命令に屈してしまった、と証言している。誰もが同じ立場に置かれたら同様の間違いを犯してしまうかも?

強靭な精神力をもった人が、なぜそのような罠にハマってしまうのだろうか。ボクシングで世界チャンピョンになった人、プロ野球の一流選手、サッカーの名選手、数え切れない人たちが、栄光の道から奈落の底に落ちていった。芸能界でも同じような話が山とあるのだ。

人間は、自分の欲望に勝てない罪人である。だから、何で精神を鍛えようが、自分の弱さに負けてしまうことがあるのだ。この罪ゆえに、私たちはさらに悪を犯すのだ。 

自分の罪悪の真実に立ち向かうことができない

あのフットボールの悪質タックルを指示した監督とコーチの責任は重い。しかし、彼らはその責任を認めつつも、選手が思い違いをしてしまったと釈明していた。不祥事が起きるたびに聞くタイプの言い訳だ。

テレビ朝日の玉川徹氏が自分の誤った発言について、「慢心と驕りがあった」と釈明していた。彼は他の人の釈明を厳しく批判していたが、今回、自分の釈明についてどのように批判するつもりなのだろうか。2~3カ月もすれば、何事もなかったかのように、逆戻りするかもしれない。やはり、自分のこととなると、人間は真実をまっすぐに見ることができない。

人は誰でも、自分の過ちを認めたとしても、どこかで責任転嫁しようとする。

「自分も悪いが、でも相手も悪い。」「~のせいでこんな目にあったのだ。」「今回は、見つかってしまったが、私と同じようなことをやっている人が五万といる。なぜわたしだけが吊るし上げられなければならないのか。」多くの有名人たちは、このようなことを心の中で叫んでいるに違いない。

しかし、これでは自分の本当の強さは生まれてこないのだ。

弱い時にこそ強い 2コリント12章9—10節

自分の罪深さと弱さを認めること、ここが新しい人生の出発点だ。自分の弱さ、罪をありのままに告白すると、何が起きるのだろうか。いい意味での脱力感が生まれる。力が抜けるのだ。「自分が・・・、自分が・・・」がなくなって主イエス様にお任せするようになる。

しかし、これは繰り返し繰り返し実践する必要がある。自分の弱さを認めたくない時が、時たまやってくる。「自分は神様なしでも強い」と言い張る自己顕示欲が勝ってしまう瞬間がある。

自分の弱さを認めることを繰り返し繰り返し実践していると、自然と謙虚な心が生まれてくる。他の誰とも比較しなくても、不思議なことに「自分は自分」と言い切れる自信が生まれてくる。

ありのままの自分を受け入れてくれる主イエス様を信じてみよう。人生が変わっていく瞬間だ。主イエス様との出会いは、新しい人生の出発点だから。

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