エペソ人への手紙4章31節ー5章2節「愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」というテーマで、御茶の水キリストの教会の鈴木敦博さんに寄稿していただきました。大みかキリストの教会で礼拝メッセージされたものをそのまま掲載しています。
鈴木敦博 自己紹介
おはようございます。今日は、大甕の教会の礼拝にお招きいただきましてありがとうございます。御茶ノ水キリストの教会の鈴木敦博と申します。よろしくお願いいたします。
大甕キリストの教会は、14年ほど前だったと思いますが、この礼拝堂が建った直後に、見学にお伺いした記憶があります。当時は安宅先生が伝道者で、ご案内頂きました。
簡単に自己紹介させて頂きます。1962年=昭和37年生まれで、現在59歳です。高校生までは名古屋に住んでおりましたが、1981年=昭和56年に大学に入り、東京に来て、当時、代々木八幡キリストの教会の伝道者でおられた上村昌次先生より、その年の7月に洗礼を受けさせて頂きました。
その後、就職をして、転勤族であったため、大阪、浜松、東京、神戸、東京、千葉、福岡、大阪、仙台、東京と引っ越しを重ねました。
教会としては、代々木八幡キリストの教会から始まり、大阪キリストの教会、大井川キリストの教会、御茶ノ水キリストの教会、仙台キリストの教会、そして現在は、御茶ノ水キリストの教会です。
今から6年ほど前に、上村先生が仙台に転居され、仙台で再会しました。上村先生は、最後は、仙台キリストの教会で説教をされ、5年前の2017年に仙台で召天されました。
私のクリスチャン生活の最初と上村先生の地上での生活の最後にご一緒でき、上村先生の最後の説教をお聞きすることができたのも、神様の大きなご計画の一部であったのではないかと思っております。
また、皆さんがよくご存知のベッツ先生には、御茶ノ水の教会で大変お世話になりましたが、そのベッツ兄弟姉妹も、その翌年の2018年に天に召されています。
その後、仕事を早期退職して、昨年から伝道学院の学生となり、バットン先生や安宅先生に大変お世話になっています。
というわけで、大甕の教会にゆかりのある方々に大変お世話になっておりますので、大甕の教会にお伺いするのは多分3回目なのですが、非常に親しみを感じています。
ウクライナの戦争と悲劇
自己紹介はこれくらいにします。さて、6月になり、木々の芽も育ち、植物には恵みの雨の季節になりつつあります。このような生命と希望に満ちた季節ですが、テレビをつけますと、残念ながら、ウクライナの悲劇的な状況が報道されています。
およそ15年ほど前、私たちのキリストの教会でも、ウクライナに伝道に行っています。当時、御茶ノ水の教会の鈴木信兄弟は、その伝道団の一員として、ウクライナのマリウポリに行かれ、多くの方々が洗礼を受けたとお聞きしております。ですから、ウクライナの状況を見ると、なおさら、非常に心が痛みます。
現在のウクライナの人々が困っているのを見て、世界中の人々が支援を行っています。必要物資を送ったり、お金を送ったり、様々な支援を行っています。
これらの方々の献身的な支援には、心から敬服します。また、主イエスの名の下にこのような支援を行われている方には、加えて敬意を表し、主に感謝したいと思います。
エペソ人への手紙4章31節ー5章2節からの学び
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。(エペソ4・31-5・2)
そこで、今日はエペソ人への手紙から皆さんと一緒に学びたいと思います。
私たちは、聖書多くの箇所から、互いに愛し合いなさいということを学んでいます。また、自分がして欲しいように隣人にしてあげなさいと教えられています。
ここで、ひとつの命題を挙げたいと思います。それは、「人を愛することよりも、人を憎まないことの方が、はるかに難しいのではないか」ということです。
本日の聖句を改めて見直してみます。「4:31 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」
無慈悲とは、相手に対する思いやりがないことです。憤りは、相手に対して腹を立てて、攻撃的になることです。怒りも同じです。そしりとは、相手の良いところを見るのではなく、相手の悪いところを見て、それに対して攻撃することです。こういったものを、「悪意」と呼んで、捨て去るように教えています。
この聖句を読むと、誰でも「その通り」と思うでしょう。しかし、実際に、自分がひどい目にあった時に、このような気持ちを捨て去るのは簡単ではありません。私たちは、攻撃を受けると、反射的に反撃します。それは、私たちの心から出てくる衝動です。
実際に、現実に、私たちが誰かから被害を受けた時、大怪我をさせられた時、大切にしていた物を盗まれたとき、また、壊されたとき、そして大切な人の命が奪われた時、私たちは本当に心おだやかにいることはできるでしょうか。
私たちは、聖書から学んではいますが、私たちの本能的な心は、怒りに震え、きっと平常心ではいられません。そして、次に自分がどのような反応を取るのか、悩むと思います。
今、極めて気の毒な状況に置かれているウクライナのクリスチャンの人々は、きっと、悩み、苦しんでおられるのではないでしょうか。戦争という暴力の被害による苦しみだけでなく、キリストにある者として、主イエスの教えをどのように守るのか、主イエスであればどのようにふるまわれるのか、どうやって敵を愛するのか。
私、鈴木は、全く自身がありません。怒りの感情を制御しきれず、悶々と悩み、主イエスキリストを信じる者としての反応はどうあるべきか、ふさぎ込み、自分の心を制御できず、苦悶すると思います。聖書の教え、答えは判っていても、それを容易に実行できない自分に苦しむと思います。
聖書は更に語ります。「4:32 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
ここでは、「平和な時に、相手に親切にし、心優しく、赦しなさい」と言っているのではありません。その前の31節で言われているように、無慈悲に、憤り、怒り、叫び、そしりたい時にも、そのようにはしないで、「相手に親切にし、心優しく、赦しなさい」と言っているのです。ひどい目に遭わされている中でも、その相手を愛しなさいと言っているのです。
次の聖句に進みます。「5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」
私たちの主イエスは、罪もなく捕らえられ、十字架に釘で打ち付けられ、槍で刺され、命を落とされました。その状況は、まさに、ひどく無慈悲に扱われ、人々の憤り、怒り、叫び、そしりなどを受け、いっさいの悪意の中で、十字架による死刑という極限の苦しみを受けられました。
そのような極限の状況の中でも、主イエスは、反論・反撃はされませんでした。そのような極限の状況の中でも、あくまでも愛を貫き通すという姿を見せて下さいました。
激しい逆境の中で、加害者を恨まず、悪意は持たず、ルカによる福音書23:34「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られているのです。
私たちは、愛されている子どもらしく、主イエスにならいたいと思っています。主イエスを手本とし、その愛に学びたい、そのような愛の心を持ちたいと思っています。そして、主イエスのような行動を取りたいと思っています。
しかし、主イエスの教える愛は、平和な時に人々を広く愛しなさいということではありません。相手が、敵意をむき出しにして、私にひどい害を加えているような時でも、それでも愛しなさいと言っておられるのです。
私たちは、人に親切にすることはまだできると思います。しかし、人を憎まないことは本当に難しいと思います。主イエスは祈られました。捕らえられる前、ゲツセマネの園において、血のような汗が流れるほどに、祈られました。
マタイによる福音書26:39「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』」この時、主イエスは、全てを知っていて、その上で、父なる神様に祈っておられます。この後に待つ、非道な、残虐な、極めて非人道的な、過酷な、運命を受け入れておられます。
私たちは、主イエスと同じように、いかなる場合でも愛の行動を取ることは、簡単にはできません。だからこそ、主イエスのように、父なる神様への祈りが大切です。ひどい目に遭わされたときに、その相手を愛することは、父なる神様の助けがなくてはできないことです。
主イエスですら必死に祈られたのですから、まして、私たちは、もっと、父なる神様に祈る必要があります。私たちは、血の汗が流れるほどに祈ることにより、聖書の説く「本当の愛、真実の愛」に近づくことができるのではないでしょうか。
マキシミリアン・コルベというカトリックの神父さんがいました。昔、日本の長崎でも伝道をされていました。一時的に戻ったポーランドで、ナチスドイツに捕らえられ、アウシュビッツの収容所で、他人の代わりとなって、飢餓室で餓死しました。コルベ神父は、身代わりとなり、収容された飢餓室でも、祈り続けたと伝えられています。
アウシュビッツのような極限の状況の中にも愛があること、愛は暴力で滅ぼすことはできないことを、身をもって証しされました。それは、おそらく、主イエスにならいたいと強く想い、祈りを繰り返し、その結果の行動であったのではないでしょうか。まさに、怒りを捨て、愛を貫くという、エペソ人への手紙の聖句を、祈りに祈りを重ね、実践したのではないでしょうか。
新約聖書のピリピ人への手紙の4章13節に「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」と書いてあります。私たちは、血の汗が流れるほどに祈ることにより、父なる神様の助けを得て、本当に敵を愛することができるのではないでしょうか。血の汗が流れるほどに祈ることにより、主イエスの説く真実の愛に近づくことができるのではないでしょうか。
ここで、ちょっと、視線を私たちの日々の教会生活に向けてみたいと思います。現代の教会においても、時には軋轢やコンフリクトがあります。一見すると、直接信仰に結びつかないと思われるような点での意見の相違があって、熱くなることもあります。そういった時に人の好き嫌いが出てくるかもしれません。
そんな時、「聖書は一旦横に置いといて」激論が交わされてしまうことはないでしょうか?うっかり、主イエスにある家族で、兄弟姉妹であることを忘れてしまう瞬間がないでしょうか?
そんな時こそ、「聖書は一旦横に置いといて」ではなく、「いつでも聖書を真ん中に置いて」愛をもって話し合うことが大切ではないでしょうか。
私たちは、ノンクリスチャンに主イエスの福音を伝える責任があります。ノンクリスチャンの方々を失望させてはいけません。教会だからこそ、問題点が何であろうと、聖書を真ん中に置いて、愛を持って語り合いたいと思います。
改めて整理しますと、
「人を愛することよりも、人を憎まないことの方が、はるかに難しいのではないか」と思います。
私たちの主イエスは、十字架による死刑という極限の苦しみの中で、反論・反撃はされず、あくまでも愛を貫き通し、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られました。
主イエスの教える愛は、平和な時に人々を広く愛しなさいということではなく、相手が、敵意をむき出しにして、私にひどい害を加えているような時でも、それでも愛しなさいと言っておられるのです。
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」ですから、私たちは、血の汗が流れるほどに祈ることにより、父なる神様の助けを得て、本当に敵を愛することができるのではないでしょうか。血の汗が流れるほどに祈ることにより、主イエスの説く真実の愛に近づくことができるのではないでしょうか。
祈り
ご在天の父なる神様、日々、教え、赦し、愛して下さっていることに感謝いたします。私たちの心は、敵対してくる人に対して、敵意を感じてしまいます。どうか、主イエスが祈り、敵を赦し、愛されたように、私たちも祈りによって、敵を愛することができる者として下さい。どうか、ウクライナでの戦争が一国も早く終わり、ウクライナの人々も、ロシアの人々も、これ以上、命を落とすことがないよう、神様の上からの智恵をお与え下さい。憎しみの連鎖を、愛の輪に置き換えて下さい。礼拝のこの場に主イエスが共にいて下さることに心から感謝し、救い主と信じます主イエスキリストのお名前によってお祈りします。