ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」
ルカ6章1-11節 聖書教会
また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。
安息日での告発1
弟子たちと麦畑を通るイエスに視線を向けるパリサイ人です。イエスが進む姿を観察するのは、弟子の道を求めてではありません。ある強い動機を持ってのことです。弟子道なら隊列に加わればよいのです。しかし、イエスの弟子たちから距離を取り一部始終見える位置で移動します。
弟子たちがひもじい思いをしながら麦畑を通っているところまでついて来ます。麦畑ですから、人家が見当たらないところまで来たでしょう。かなりの執念深さをもっての後追いです。それも、目を離さずついてきたのです。
この執念は、ある一瞬をとらえるためです。弟子たちはひもじさを抱えています。主イエスは麦畑の穂を取る弟子たちを戒めません。彼らが食べるまさに、その場面でパリサイ人は「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか」と弟子たちを咎め、イエスをも咎めます。
律法を説くことがパリサイ人の職務です。安息日に実行してよいこと、してはいけないことを定める権威を持っているつもりです。定め以上の行為をイエスと弟子たちが行ったかどうか異をとなえます。律法を手に、律法に成り代わり裁く彼らです。本来は律法が彼らの行為を定めるはずです。
何が大切か
弟子たちに食物となるようなものが手に入る場所が他にありません。その場面で、定めか、弟子たちの体調か、決まり事か、人のいのちか、の問いが投げかけられます。規則に生きるパリサイ人ですから、いうまでもなく安息日規定に即した振る舞いを是とします。イエスはどうかと、彼らの問いの矢面に立たされます。
決め事に忠実な者が陥る落とし穴です。決まりを盾に事の正当性を自己主張するおそれです。何が最も大切なことかを見失ってしまい、決め事を武器に自分に都合よく解釈し権力を行使することがあるでしょう。どのような集まりでも規則が生まれます。規則本来の目的である互いの益のためということを忘れ私物化する誘惑があります。
規則だからと行動するときにはリードする側もされる側も細心の注意、謙虚さが求められます。特にリードする側の責任は重いといえます。リーダー自身が規則となり、周囲の人々に何も言わせなくなってしまう危険性を忘れてはならないと思うのです。お仕えする主イエス・キリストをどれほど悲しませているのか忘れてはならないのです。
イエスの答え
パリサイ人に主イエスは弟子たちに代わり答えます。弟子と主イエスは一緒です。主イエスはパリサイ人に言います。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。ダビデは神の家に入って、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」
パリサイ人が敬うダビデが神殿の供えのパンを食したことをあげます。彼が連れの者たちにも与えたのを読んでいるでしょうと問います。読んでいるとすれば彼らの咎めが問題です。読んでいないならば立場が問われます。答えがなく時が過ぎます。初めの口調から一転します。咎めるときは勢いづき、自身のこころが問われると黙します。自己中心の罪深い振る舞いです。
主イエスはダビデの行動を取り上げ沈黙する彼らに語ります。「そして、彼らに言われた。『人の子は、安息日の主です。』」マルコは「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」と主イエスの語りを置き「人の子は安息日にも主です」と閉じます。ルカは人間のため、を除き主イエスが安息日の主であることに重きを置きます。
ルカの福音書の解説 戸村甚栄 伝道者
安息日の要
キリスト者の安息日、主日礼拝は人間のためですが、だから好き勝手とはなりません。人の事情や都合で左右されるならどうでしょうか。この国は主日礼拝、主がよみがえられた日に学校や地域や国の行事が集中します。「人の子は、安息日の主です」のみことばを聞き、神を神とする歩みが問われます。
他方、かつて主日礼拝死守とか厳守で行われた苦難の時代があったことも聞きます。礼拝を死守する兄弟姉妹の姿勢に甘え、説教が弱体化してゆくならば大問題です。すでにその状況があるのではとの指摘を聞いたことがあります。一部の者の観察かも知れませんが聞き逃すことが出来ない指摘でしょう。主イエス・キリストに召され、主にお仕えするキリスト者各自が自分のこととして受けとめ、自己吟味、自己批判をするべき指摘でしょう。
安息日の告発2
麦畑の一件から別の安息日に起こったことです。主イエスが右手の不自由な人を直すかどうか、律法学者とパリサイ人が見ます。訴える口実を見つけるためです。主イエスは不自由な人を中心に立たせ会堂の皆に問います。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか、いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」応答する者がいません。
「そして、みなの者を見回してから、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。」主イエスはどうですか、と問いながら、応答を待たず答えを示します。安息日の会堂で右手のなえた者の手を元どおりにします。
主イエスは安息日の行いとして何がよく、何が教えに違反するのかを問いません。問いはいのちを救うことか、失うことのどちらがふさわしいことかです。規則が守られるかどうかより、何を行うのか、それが問題です。「人の子は、安息日の主です。」
行いの起点は主イエス・キリストにあります。主イエス・キリストに従う者にふさわしい行動が生まれます。この真実に律法学者とパリサイ人は分別を失い、理屈抜きでイエスをどうにかしてやろうかと話し合います。私たちは「人の子は、安息日の主」と言われた主を仰ぐ主日礼拝をしつつ、ここに日々の生活の基をおき歩ませていただきます。