コンテンツへスキップ 投稿日:2024年4月26日/更新日:2024年4月26日

イエス・キリストの憐れみ

それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

ルカ7章11-17節 聖書協会

ナインでの出来事 

イエスの一行がナインの町にさしかかると町の門から行列が彼らに向かって来ます。葬りの行列です。死を汚れとし町の外に運び出します。町は命溢れ、活力のあるところ、死を排除するかのように振る舞います。しかし、町の輝きの背後に必ず訪れる死があります。町の忙しさで一時誤魔化しても、必ず迫る死です。

葬りの先頭にやもめの母親が立ちます。ひとり息子を失います。支えになるはずの息子です。青年と呼ばれ、命みなぎり、働き盛りでこれから輝くはずの者の死が婦人を襲います。夫を失い、頼みの綱の息子を失い、普段の流れに逆らい親が子を葬ります。茫然自失のままで葬列に加わります。

列の人々は嘆くだけです。語る言葉もありません。お悔やみ申し上げます、と言ってその場を取り繕うのがせいぜいです。交わす言葉が見当たらない絶望です。傍に居るだけです。無力な現実を突き付けられ、ただ一緒にいるだけです。沈黙し、悲しみを抱え、一緒にいるだけです。

町から出る列と向き合うイエスです。目を背け、通り過ごしません。それどころか、悲しむ母親に「泣かなくてもよい」「泣くな」と言うのです。命令です。町中の人々が泣き、悲惨のどん底にあるやもめに「泣くな」と命令します。非情で氷のようなこころの持ち主と非難されても仕方がありません。

かわいそうに思い

死に直面するイエスは強い憤りを持たれたと解釈した者もいます。生きるべきいのちの滅びに直面し激しく憤るイエスです。激情からの命令「泣くな」です。やもめに呼びかける直前にはかわいそうに思い、との感情があります。死に向かう憤りの対局に、かわいそうと思う深い慈愛です。かわいそうに思い、の言葉は神にのみ用いられます。イエスが語られたサマリヤ人の物語や放蕩息子で使われます。

かわいそうに思い、は、悲しんでとか痛みを覚えてなど、あわれみのこころです。人体に重要な臓器、心臓、腎臓、肝臓、など五臓六腑を指し、そこが軋むほど痛み悲しむ表現です。胸が痛む、心臓が裂けるほどの悲しむと言われるゆえんです。即行動が起きる情動です。我を忘れ駆け寄る衝動的愛を表わすことばです。

あわれむサマリヤ人は強盗が潜んでいる現場で瀕死の被害者を介抱します。また、見る影も無い家出息子を遠くに見た父の行動です。ご老体で、胸痛み待ち焦がれていた時、帰還した子を見て駆け寄る父のあわれみの姿です。罪人のため天より駆け寄られた主イエス・キリストのあわれみを見ます。

あわれみの行動

かなり前のこと、あるキャンプ場で姉妹が丸太の橋から滑り落ちました。助け手が沢の底に到達するには簡単ではありません。二人の兄弟姉妹が沢の底に居て姉妹の介抱を始めました。瞬時に、すべきことをしました。気がついたら二人で傷ついた姉妹を介抱していたのです。瞬時の行動はイエスにあわれまれた者たちが身につけているあわれみの姿だったと思い出します。

あわれみからイエスの「泣くな」のみことばです。御声に葬列者は驚いたでしょう。驚き、とまどったでしょう。親族ならまだしも、他人が葬列に近づき棺に手をかけます。当時は現在の棺のようなものではなく、担架のようなものに亡骸を乗せ運んだようです。戸板のようなものであったようです。

死を汚れと扱い、街の外へ運び出す列です。外でことを済ませようとします。そこにイエスが近づき、息子を失った母親に声をかけ、棺に触れます。その時点で棺をかついでいた人たちは立ち止まります。経験したことのない事態が起こっているからです。葬列が凍りついたように立ちすくみます。

戸村甚栄伝道者の聖書解説 ルカの福音書

起きなさい

そのときイエスのことばが棺に横たわる者に語られます。「青年よ。あなたに言う、起きなさい」、皆目を伏せ、向き合えなかった亡骸に、イエスは向きことばをかけます。人々の口から言葉を奪う死を前でイエスは青年に語ります。いのちつきた者にことばを放つイエスです。

死体となっている青年に、あなたに言う、と語ります。母親は何を聞いたのでしょうか。棺をかついでいた人々は何を聞いたでしょうか。周りの人々は何を聞いたのでしょうか。何を、思う間もなく聞こえてきたことばが響きます。「起きなさい」です。信じがたいことばが聞こえてきます。

横たわる者に、あなたと呼び、起きなさいです。町から出る死の隊列、諦めの隊列、死の旅の人々に向きます。青年のみならず、これまで町から出た隊列を逆転させることばを宣言します。最後の敵、死に勝利することばです。隊列の人々はイエスを聞いています。イエスの出来事のことばを見ます。

イエスのことばが青年の出来事になります。「すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、」とあります。みことばと死人のよみがえりが同時です。みことばを聞けない死者にお語りになるイエス。母親、葬列の者たち、町中が口を塞がれたときイエスのみことばが響きます。みことばの通りになり、青年は話し始めます。起こされた者が言葉を語り始めます。

立ち上がる

イエスは青年を母親に返します。死の淵から、絶望から歓喜に返します。家庭へ返します。死からいのちへ帰ります。「泣くな」と命令し、亡骸に触れ、起きよと命令されたイエスこそ世の罪を負い、黄泉にくだり、誰も体験したことのない悲しみの底まで行ってくださいました。罪を引き受け城壁の外で葬られました。そのお方のみことばが聞こえます。そのお方の御手が触れます。だから立ち上がれます。

私たちは知っています。三日目の朝主イエス・キリストはよみがえりました。青年のために、母親のために、そして私たちの義のためです。御手で棺に触れてくださいます。あわれんで触れて下さいます。「泣くな」「起きなさい」「帰りなさい」とわたしのよみがえりの宣言です。主イエスに感謝します。死に勝利した福音の主イエス・キリストに感謝します。アーメン。

蕨キリストの教会 戸村甚栄伝道者

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