さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。 ルカの福音書 8章19-21節 聖書協会
キリスト者の葛藤
前回では女性たちが様々な関わりを後にしてイエスに従う姿に注目した。その変容に目を向けた。今回、イエスに従い家族に起こる葛藤に目を向けます。まず、この国で信仰に生きる私たちが直面する課題の二つに目を向けます。そして、後半みことばに聞きます。
崩壊したと言われる家族でも血縁、地縁意識があります。それらは家族、地域共同体が支え合うことから育まれたものです。好ましい部分もあれば、それが面倒で故郷を後にする人たちもいます。いまはしがらみから逃れ都会に向かう人はいないかもしれません。キリスト者となるとき、家では反対やとまどいがあり、みことばに歩むとき試練があります。
社会で葛藤があります。何かを行うとき、摩擦があります。同じ屋根の下、心を痛め信仰生活をおくる現実もあります。今日は・・・があって、明日は・・・があるので、しばらく・・・の都合で来られません。礼拝が大切と思いながら、集えない訳を告げます。事情を聞き状況がわかります。同時に、礼拝に来られない事情を説明する状況にこころ痛みます。
主日礼拝は当たり前ではありません。来られないときは弁明します。まだよいほうです。無言で集いを諦めることさえあります。キリストのからだ、教会を引き裂くのは血縁でしょうか、地縁でしょうか、世の濁流でしょうか、なんでしょうか、当事者しかわかりません。
あるご婦人は、キリスト者とされたが、ご主人の理解が得られず時が過ぎ、夫が他界し礼拝に来ることが出来ました、と聞き言葉を失いました。あるカトリック司祭は実家で十字をきることが難しいと語りました。長年牧師として歩まれた方が、家庭で礼拝を持つのは厳しいことです、と聞いたことを思いだします。信仰生活の道は厳しく、一筋縄ではゆかないのが実状です。
イエス・キリストの再臨まで、キリスト者が直面する状況です。今日も信仰が試され、問いつつ、家庭で、地域でキリスト者が歩みます。すべてご存じのイエス・キリストからのあわれみが注がれるよう願います。闘いの只中で、イエス・キリストに在って生きる恵みに感謝できますようにと願います。
信仰の継承
もう一つ、私たちに問われる課題があります。家族主義が信仰生活に及ぼす影響を取り上げました。ところが、その家族がキリストに祝福されたとき、絆の強さが反転して、希薄化します。家族意識が高いと思われる国で、肝心な事柄になるとあたらずさわらずになります。信仰の継承がよくゆきません。なぜでしょうか。共に問い、真剣に向き合わなければならない課題です。
信仰は個人的と決めているでしょうか。主体的に信じ、他人がどうこう言えないと思っているでしょうか。キリスト者のお父さんが幼子へ、「信仰は強制しません、本人の自由にします。」しかし、伝えることは出来ると思います。信仰共同体を歩んでいます。信仰を個人的な檻に閉じ込めるのはみこころでありません。信仰が継承され教会が歴史を刻むことを願うのです。
厳しい状況をあげましたが悲観していません。厳しい現状を直視し、逃げずとの願いです。私たちにはあらゆる状況に向き合える根拠があります。血縁、地縁の軋轢のなか、なおイエス・キリストが導く道に確信があります。御国は開始した、しかし、まだ成就してはいません。御国を生き、主の日を待望する者に信仰の闘いは続きます。キリスト者の葛藤は、御国の完成へと歩んでいる徴です。十字架のキリスト、苦難の僕を、私たちは信じます。
ルカの福音書の解説 戸村甚栄
イエスとの問答
十九節、「イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のためにそばへ近寄れなかった。」イエスが群衆から身を退け、家族と会ってよいでしょう。家族がこぞって足を運んでいるようです。群衆がイエスの周りを囲みます。イエスご自身も家族の方へ行く様子がありません。
二十節、「それでイエスに、『あなたのお母さんと兄弟たちが、あなたに会おうとして、外に立っています』という知らせがあった。」周りの誰かが、イエス告げます。家族の絆は特別と思い告げます。
「あなたのお母さんと兄弟たちが、」と身内が傍まで来ています。「あなたに会おうとして、」と伝えます。群衆が妨げです。それでも会わなくてはならない家族の事情があったのです。家族は「外に立っています。」
二十一節、「ところが、イエスは人々にこう答えられた。『わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです。』」イエスのみことばは、耳を疑うようなことです。この前で種蒔きのたとえがありました。そこで、「耳のある者は聞きなさい」と「聞き方に注意しなさい」との勧告でした。イエスが語る家族像を信じ聞くか、みことばの聞き方が問われます。
二十一節の、ところが、は、社会通念との異なりを示唆することばです。人々が描く家族像とは異なる、ところが、です。私たちの家族像とは異なります。答えは、「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです。」家族はイエスのみことばを聞くことによるのです。神のことばを聞く人は、みことばを行う人です。その人々が神の家族となります。
イエスが説く家族
イエスの母は神の言葉を聞く僕です。神の家族です。神の家族とは誰か、と問うとき血縁や地縁ではなく、イエスがお語りになるみことばが基準です。そのとき、世の家族間に葛藤が生まれます。社会で緊張が、葛藤が生まれます。神の言葉を聞き生かされるひとりとして、信仰の人として歩むときイエス・キリストの支え、導きが必要です。
家族主義が色濃い国で、イエス・キリストを聞き歩むことをキリスト者が、教会が問われます。厳しく、難しい状況があります。思うままにならないなか、イエス・キリストのみことばを聞き、礼拝しつつ歩みます。主イエス・キリストが導きます。だからいわれます、「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです。」