イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。
8:31 そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。 ルカの福音書8章27-39節 聖書協会
悪霊につかれた男
湖上で嵐をしかり、静めたイエスは、異邦人が住むゲラサ地方に足を踏み入れます。ユダヤ人が嫌う地域、弟子たちも足を踏み入れたくない、避けたい地でしょう。イエスはここに立ちます。神とかかわりの無い者たちと称された民の間に立つイエスをルカは記します。異邦人著者に注目の出来事です。世界宣教される福音の豊かさ、強さ、広がりがここにも見られます。
最初、悪霊にとりつかれた男です。墓地を住まいとする者です。衣類も身に着けません。異様ですが、死の場を生活圏としているのは、この男だけでないでしょう。神抜きに生きる者は、滅びの場で生きます。滅びに向かっています。この事実に気付かず、受けとめず、誤魔化しているかの違いだけの話です。神抜きで生きようとしている者は墓場の男と大差ないでしょう。
悪霊と向き合う
イエスに出会った悪霊は男の口をもって大声で言います。それも御前にひれ伏します。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。」イエスは告白を退けません。悪霊の告白は礼拝のふりで、何かやり取りする悪意があります。ここのひれ伏し、大声で言う「神の子、イエス」は礼拝とはかけ離れています。一人の男の人生を台無しにしておいて、その口から出る言葉です。
偽りの礼拝者とイエスは対話します。悪霊を一言で破壊してよいです。一人を悲惨な生活に貶めます。その悪霊の懇願を聞きます。「底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんように、」と願います。人が滅びるのを喜びとする悪霊が、自分は滅びたくないと必死に願う。悪霊が嫌う所、人はなおさらです。私たちがそこに行くのを、イエスは黙って見るはずがありません。
悪霊が願い、男から出て豚の群れに入ります。ユダヤ人が汚れとみなす家畜を隠れ場として悪霊は選びます。家畜は汚れていないが、彼らの宗教的慣わしで汚れものとされます。悪霊は豚に入り、豚はいきなり崖を駆け下り、湖で溺れ死にます。人を滅ぼす悪霊がイエスの名で滅びます。弟子たちは将来直面する闘いの支えを体験します。異邦で、悪霊と向き合い、支配するイエスを見ます。どの地でもイエスは悪霊を打ち負かすことを確信します。
ルカの福音書の解説 戸村甚栄伝道者
人々の反応
悪霊からの解放、悪霊の滅びを見、豚を飼う者たちはこの事を町や村々で伝えます。人々は出来事を見に来ます。豚の死滅を聞いたでしょう。その地方の特産が滅んだことを聞き衝撃を受けたでしょう。そこに悪霊から解放され、正気に戻った男がイエスの足もとに、着物を着て、すわっています。目撃者たちは、悪霊につかれていた男が救われた次第を、町の人々に伝えます。
出来事を見た者、悪霊から救われた男の目撃者のいずれも、すっかりおびえます。豚の死滅で恐ろしくなったのは分かります。しかし、悪霊につかれ、墓場で叫ぶ男が救われて、おびえるのはなぜでしょうか。男の激変に驚くならわかります。その変化に喜ぶのはわかります。ところが、どうしたことか恐ろしさとおびえです。男が救われ、おびえるにはわけがあります。
男が救われる前は墓場で居場所が特定出来ていました。たとえ暴れ、鎖や足かせを壊しても、人々の管理下におかれました。問題を抱えていたにしろ、男とは距離があります。ある程度人々の手のうちにありました。知ったうえで、一定の距離を置くことが出来ていました。おびえることはないのです。
人々の恐れ
社会問題を隔離し、目にすることがないことで、あたかも問題無しと地域の安心を演じる巧妙なやり方があります。社会問題に蓋をし、遠くに追いやられた男が、自分たちの中に来たことを恐れたのです。一人救われたが、地域経済の損害が恐れとおびえを民にもたらします。一人の救いのため、独り子のいのちさえ惜しまない天の父なる神とは異なります。
もう一つの恐れは、長年どうも出来なかった問題、悪霊に敗北してきた町に。悪霊より強いお方が来たことです。男を墓場暮らしにさせた力を打ち砕き、解放し、救うお方が自分たちの前に立ちました。自分たちの思うままでは済まなくなりました。自分たちに不利益をもたらすお方です。恐ろしく、おびえます。この町から離れるように願うのです。
彼らを責められません。イエスが人生に訪れるとき、自分の思いのままにならない恐れ、おびえが生まれることはないでしょうか。イエスの圧倒的愛が迫るとき、それを恐怖と勘違いすることはないでしょうか。人生の主導権が奪われてしまうと勘違いし、もうこれで結構です。私から離れてください、とイエスに離れるよう振る舞うことはないでしょうか。
町の人々は、イエスに離れるよう願い「イエスは舟に乗って帰られた。」悪霊を打ち砕くイエスを体験し、男の救いを見て「離れてください」と言います。罪が露わになり、そこから去るイエスの悲しみを思います。「離れてください」といま叫ぶ罪人の声があります。主よ。あわれんでください。
救われたひとり
人々と異なる応答をした者がいます。町からつまはじきにされた者です。救われた一人です。たった一人、わずか一人でしょうか。世は、たった一人だけと言うかもしれません。しかし、イエスには、たった一人の言い方はありません。一匹の失われた羊のためどこまでも行くイエスです。たった、のことばは決してありません。だから、わたしも、あなたも救われました。
町から去ったイエスは男と対話します。男はイエスについて行きたいと願います。悪霊から救われた男にはこれからの道を示されます。「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」かつて墓場生活した者が、新しい身で家で語るばかりか、町中で語り始めます。彼に起こっているイエスの御業を生きる者となります。