コンテンツへスキップ 投稿日:2020年11月22日/更新日:2023年4月30日

ルカの福音書を解説するにあたって

ルカの福音書の解説です。蕨キリストの教会の戸村甚栄伝道者は、現代人に語っているルカの福音書のメッセージを解き明かしてくださいます。福音書シリーズの一部として、随時アップしていきます。ご期待ください。

福音を聴く

「福音を語ること」、「地域教会・各個教会であること」を問う発言した者として、福音書に取り組み発言者自ら福音を聴き始めることが求められます。聴かなくては、聴こえてこなくては「福音を語る」ことが不可能です。ある説教者が説教壇から降りたとき、一人の長老が説教者の耳もとでささやいたそうです。゛今日、主イエスはあなたにお語りになりましたか。゛ドキッとするささやきです。福音を聴きましたか、それを語っていますか、と言い換えられます。そして、ルカを選んだのは初代教会の様子を残した人物でもあるからです。「福音」と「教会」は不可分です。この切り離し難い二つの接点に立つ人物として、ルカに注目することには意味があるのではないかと期待します。

ルカ福音書、使徒行伝の各書は他に比して頁数が多く書かれています。二つを合わせるとパウロによる書を除いては新約聖書中他にない量です。長さがずばり情熱の尺度とは言い難いが、ルカの熱い思いが現されていると受け止めても間違いではないと思います。ルカが捉えられた「福音」と「教会」への情熱が溢れていると言えます。異邦人、神とは関係のない者と言われたルカに届いた福音です。驚きの出来事としてこころに刻みこまれたと想像します。パウロと深い関わりを持ち異邦世界への宣教、教会の前進、拡大を目の当たりにした歴史家のペン先も震え動かされたことを想像します。異邦の果てに位置するこの国で、ルカから届く福音に耳を傾け、聴くことは必要であり、特別な恵みであると思います。

著者ルカについて

ルカについて言えば、多才な賜物を与えられた人物です。よきサマリヤ人の話、失われたコイン、迷い出た羊、家出息子の帰還、このような失われた物語からしても文学的才を現します。物語の情景描写からは優れた絵画家を想像します。福音書冒頭では様々な手立てで書をまとめた歴史家としての才、また医者としての視座を有する才(パウロはコロサイの信徒の手紙第四章十四節で、愛する医者ルカ、)があります。

収税人ザアカイを訪ねた主イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」と書いたルカの意志が、主より受けた賜物を生かす器となったことを想像します。教会より、宣教に力点をおくルカと言われますが、それでも初代教会の始まりを書き留めたルカ、教会への思いも認めることが出来ます。福音書で既に聖霊の位置、働きが特徴立てられ、初代教会が聖霊降臨から展開したことは「福音」と「教会」に流れているルカ特有の視点、固有性と言えます。

ルカが影響を受けた教会はアンテオケであったことは、パウロの宣教旅行の開始がアンテオケであったことから想像出来ます。そこで兄弟姉妹からルカ自身が直接触れることがなかった、主イエス・キリストのことを聞き、礼拝から見聞していただろうと思われます。

エルサレムの北、異邦の地の礼拝共同体で受けた福音はルカにとり忘れ難いものであったでしょう。その福音に出会いアンテオケからパウロと旅立ちます。(使徒行伝第十六章十節での、わたしたち、はパウロに同伴するルカの言葉です。)異邦にあるアンテオケ教会に送り出されてさらに異邦の地へと旅立ちます。パウロ最後の手紙に、「ルカだけは私とともにおります」(テモテⅡ第四章十一節)と書きます。どこまでもパウロと共にいます。主イエス・キリストを伝える同労者への思いを抱き続けたルカの姿が見えます。

現代人にも語るルカの福音書

現代においても、ルカ福音書がキリスト者を立ちあがらせ、地の果てまで送り出す書と言う者もいます。宣教の業を奮い立たせる書として愛され、取り次がれ、今もなお取り次がれ、説教者に愛されている書です。地の果てへ、それは地理的な意味もありますが、既存の世界観への挑戦としての地の果て、そして、いまだ主イエス・キリストに出会っていない意味での地の果てもあります。

ある研修会で牧師が新任地に着いた印象を振り返った言葉がいまもこころに残ります。「都会から地方、それも半島の突端にある教会堂に立ったとき、地の果てに来た感覚が生まれた。」「海辺なら横に砂浜が広がる、しかし、半島の周りは海で、まさに地の果てに立つ感覚であった」そして、続けて言いました。「地の果てはいまだ主イエス・キリストに出会っておられない方の前こそ、地の果てです。」同感して研修会を後にしました。この言葉を思い起こす度こころ熱くなります。

私たちは地の果てに立ち続けています。立ち続け前進する教会はあります。他方立ち止まり、立ちすくんでいる状況もあります。ですから、失われた人を捜して救うために来たのです、と主イエスのみことばをルカのペンを通して聴くことは必要です。その、みことばには強く惹かれ、挑戦させられます。ルカ自身失われていた者です。それも神とは関係の無い者、異邦人と呼ばれていた者です。そのルカのところにも主イエス・キリストが来られたのです。「失われた人を捜して救うために来たのです。」

ルカは書かなくてはならないのです。福音に捉えられ、福音漬けになっています。ある方がこの「福音漬け」の表現をしていました。キリスト者は皆「福音漬け」になっています。そして、福音者として主イエス・キリストにより世に送り出されています。

おわりに

「ルカ福音書に聴く」と題を定めこれから旅に出ます。ある神学者によれば、ルカは先ず、説教者であったと言います。歴史家、医者、文学者、画家、旅人と、これらの賜物を結晶化させ福音説教者として主イエスの御用に当たります。説教者ルカに期待を込め、「ルカ福音書に聴く」と題を選んだ訳です。福音に出会い、その確信から説教するルカを目の前に進む旅となればよいのですが。それに、説教は聴かれる時代に語られ、出来事となることを確信し放たれるものです。だから、説教者ルカを聴くことは、今ここで聴くわたしたちに生きた説教となり、わたしたちを生かす説教であり、わたしたちを変える説教となります。今、説教者ルカが語るみことばがいのちとなり、こころを動かし、わたしたちの物語、人生、旅を導き、形成します。説教を聴く臨場感を感受し、ルカがわたしたちのこころに説教し、みことばを響かせるように聴くことが出来れば、あなたに語っている説教者ルカが迫ります。そのルカを突き動かしておられる主イエス・キリスト、きのうもきょうも、いつまでも、同じ御方があなたに語り、あなたを動かし、あなたを常に変え続けます。

投稿に際し、先人達の言葉や経験から学んだ事柄は数えきれません。感謝なことです。しかし、参考文献表や文中に脚注などはつけません。礼拝現場で聴いている感覚を重んじながら「ルカ福音書に聴く」ことに集中したいと思います。礼拝共同体、みことばを聴く仲間としてルカの説教に耳をそばだて、福音を各人が携え、地の果てにおもむき主イエス・キリストに生かされ、ますます主の教会となれるよう願います。皆さんそれぞれの生活現場で、礼拝をしながらルカ福音書に聴きつつ「福音を語ること」「地域教会・各個教会であるとは」の問いに生きることが出来ますよう願います。

最後に投稿にあたり、なにかと足らざることが生じると思いますが、皆様と対話しながら進んで参りたいと思っています。宜しく御指導、ご協力お願いします。

そして、もう一言です。「ルカ福音書に聴く」を皆さんと共にしばらく旅し、「福音を語ること」「地域・各個教会であるとは」の課題を念頭におき、対話のテーブルを設けることが出来ればと思っています。これからの投稿文に対する批評、分析、意見、議論の言葉を、時差は生じますが当機関誌に掲載し、対話を続けることが出来れば良いのではないかと思っています。コメントは短文、感想、印象、問いなどでもよいと思います。いずれにしても、ご一緒に「ルカ福音書に聴き」ながら、これからの教会を見据えて、愛に根ざした熱のこもった対話のテーブルが生まれるとよいと期待します。わたしたちは主イエス・キリストのからだなる部分です。「福音を語ること」「教会であること」は兄弟姉妹すべてに期待されている協働の業です。

蕨キリストの教会 戸村甚栄

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