コンテンツへスキップ 投稿日:2021年1月28日/更新日:2023年4月30日

ルカの福音書1章5-14節。高齢の夫婦

ルカの本文の始まり

ルカの福音書1 章5節-14 節

ルカの福音書の解説シリーズ。

ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。 香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。

ルカ1章5-14節 聖書協会

ルカの本文の始まりは、創世記の出来事でもなく、初めにことばありき、というヨハネ福音書のようではない。出来事について、初めからの目撃者との書への背景が、「ルカの福音書1章1節ー4節に聴く」であります。それは、この世界で起こっていること、人の営みを初めとして書き始めます。歴史的事柄として書きます。人が地に足をつけ、生活を営み、色々な出来事を体験している世界を舞台にして書き始めます。その舞台はとりもなおさず、今を生きる私たちの今日につながります。

何年か前、二度エルサレムに旅したことがあります。神殿の跡があり、オリーブ山があり、ガリラヤ湖が舟を浮かべ、ヘルモン山がはるか北のほうにそびえ立っています。当時と同様、変わらず冠雪の頂きが目に映ります。通りには、黒い帽子をかぶり、顔の両側から長い髭をたらし、黒いガウンをはおり歩くレビがいます。旧約時代から安息日を死守し続ける人々が現在も街の通りを歩いています。このような世界に起こった出来事からルカは書き始めるのです。

その始まりは、ヘロデ王の名からです。書きたくない名前の一つではなかったのではないでしょうか。真の王を知るルカが「王ヘロデ」と筆で書き下ろすなど拒否したくなる名です。時代の支配者であるなら記録する内容を吟味し、好ましくないことは排除するでしょう。しかし、ここでは歴史の始まりに「王ヘロデ」と書くのです。御霊のお導きに従うルカです。

この支配者を起点として、次ぎに出てくるのは神殿奉仕する祭司ザカリヤです。これも記録内容としては最優先事項ではなかった筈です。なぜなら、ルカが記録したときには神殿中心の世界は変わっていたからです。終わったと言ってよいのです。あの山、この山で礼拝する時代は去り、霊と真理で礼拝するときが来たからです。しかし、出来事の始まりは「王ヘロデ」の時、「神殿祭司」ザカリヤを通してあったのです。人々が生きている現実はそのまま書きとめられる必要があります。だから記録されます。

高齢の夫婦に

ザカリヤとその妻エリサベツの名をあげます。女性の名が特に書き記されることは、男性中心社会の当時として斬新であったと思います。このことからも、何か新しい風が吹き始める予兆が感じられたのです。彼ら夫婦の生活ぶりも書かれています。ふたりとも神の御前に正しく、主の戒めをすべて落度なく、踏み行っていた、とあります。すんなりと書きますが、「ふたりとも」とあります。「ともにふたりで」と言い換えてもよいでしょう。書けるようで、なかなかすんなり書けないのが現実ではないでしょうか。互いにエゴがあり、自分があり、我を通したい罪があります。なかなか折り合いがつかないまま、我慢しながら今日を生きる現実があるかもしれません。特に、この国で、異邦の最果てで、「ともにふたりで」信仰に立つことを書き切ることは難しい、厳しくも途方にくれるような状況があります。今も信仰の闘いをしている多くの兄弟姉妹を思います。主の励ましとあわれみを願うばかりです。

ここに記録された夫婦は「ふたりとも神の御前に正しく」とあります。互いの折り合いの話しではなく、神の御前でこそ「ともにふたりで」となるのです。理想的ふたりだから「ふたりとも」ではありません。そうではなくて、それぞれ弱さがあったとしても「神の御前で」のともにふたりです。神様のあわれみにより私たちは「ともにふたり」でと初めて書くことがでるのではないでしょうか。ですから、ふたりが特別立派だから「ふたりとも神の御前に正しく、主の戒めをすべて落度なく、踏み行っていた」と読み込んではならないのではないでしょうか。神の御前でこそ、神様のあわれみでこそ、そのような文章を記録出来たのです。

人生の危機で

このふたりに人生の危機がありました。その危機を抱えながら神殿に仕え、互いに生きています。エリサベツは不妊の女であったと書きます。医者ルカが記す、エリサベツの状況です。彼らには子がいなかった、とも書きます。不妊であれば当然子供はいないのです。それなのに、なぜあらためて、彼らには子供がいなかったと書くのでしょうか。むしろ、このようなことは伏せておくほうがよいでしょう。世継ぎがいないことは家の一大事です。落胆を表し、社会的立場の弱さゆえに、彼らには子がいなかったと書く必要があったかもしれません。さらに追い討ちをかけて、ふたりとももう年をとっていた、と書きます。決定的事実を書くのです。それでも、ザカリヤは落度なく、いやザカリヤだけでなくエリサベツとふたりで落度なく主に従う生活をしていたのです。彼らに子どもがいなかった、そのことを、その状況を悔やむ日々ではなく、むしろ、神の御前で仕えることに専念する歩みをします。それでも、仕えながら不妊のことを神様に問いつつの生活であったと思います。神様なら必ずお応えくださると信頼しての歩みです。

一時の危機でもこころはゆさぶられます。疑い迷いが生まれます。それが、長年抱える危機でありながら、それも望みが断たれたような、好転することが期待出来ない危機です。それでもふたりの信仰は、揺さぶられることなく、枯れることなく、ひたすら主に仕える生活となっていたのです。彼らの姿はどこから生まれるでしょうか。様々な危機が日常生活の中で私たちを襲います。教会を襲います。突然の危機もあれば何年、何十年も向き合う危機もあります。

ある教会の方から聞いたことです。十四年ぶりに礼拝に帰って来た兄弟がいたとのことです。もう諦め、忘れかけていた方が帰って来たのです、と喜んで語ってくださいました。十四年の間、信仰が試されましたとも言っておられました。愛が欠けていた自分を悔い改めたとも言われていました。身に覚えがあることです。他の牧会者から聞く、身に覚えがあり、身に痛く滲みる体験談です。いろいろ起こります。しかし、それでも、いや、それゆえにと言っても良いです。兄弟姉妹たちは神様を礼拝し続けていました。だから、兄弟は十四年ぶりに帰ることができたのです。ザカリヤとエリサベツは危機を抱えながら揺さぶられることなく歩んでいました。彼らも神の御前で生かされていたから、礼拝し続けていたから、揺さぶられても、道を外すことはなかったのです。

ザカリヤに起こったこと

さて、とルカは目を転じて、ザカリヤが神の御前に祭司の務めをし、神殿に入り香をたく様子を記録します。香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた、とあります。神殿内で香をもって祈るザカリヤと人々は、神殿の壁を突き抜け一体となり神に祈りを捧げます。ここには神との対話が一人の祭司だけの業ではなく、人々が関わる、共同体の業であることを示しています。神殿内であろうが、外であろうが、置かれた場で神との対話をするのです。ここでは個人でのものでなく、共同体の業です。それぞれが祈るとき、聴いていてくださる神の臨在が共有された体験となります。神の子等、神の家族として体験します。その現場に御使いが現れます。神と対話する者に、それを支えあう祈りの共同体に神は応答してくださいました。神は確かにおられ、聴いてくださっていたのです。

ザカリヤは御使いを見て不安を覚えます。恐怖に襲われたとあります。神殿での出来事です。自身の弱さ、手に負えない現実、滅び行く現実を見ます。そして、その中で滅びる者のいのちを覆す聖なる神の使いに触れます。現われた御使いは名をガブリエルとしています。闘うものという意味です。御心をもって闘う御使いです。神の時代を進めるため罪と闘う御使いです。神の御業のなかに入り込んだザカリヤは不安と恐怖に襲われたのです。聖なる御方の世界に触れた、聖なる感覚が、不安と恐怖をもたらしたのではないでしょうか。

こわがらないで

このザカリヤに御使いは言います。「こわがることは無い。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネと呼びなさい。」うろたえる者に神はみことばをくださいました。みことばを聴くとき、わたしたちは救いを見ます。ゴルゴタで起こったことを見ます。丘に立つ十字架を見ます。みことばを聴き見たことからなお聴きます。神が語る約束です。背を向けることのない、変わることの無い約束を聴きます。襲った不安と恐怖は飛び散ります。みことばを聴くからです。

不安や恐怖の消滅だけではありません。「その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。」神の約束がさらに、みことばを聴くザカリヤにとり喜び、楽しみとなります。ザカリヤばかりかエリサベツにとっても喜びと楽しみとなります。さらには、あの神殿の外でこころ合わせ、共に祈りを一つにしていた人々の喜びと楽しみとなります。そして、言わなければなりません。「多くの人もその誕生を喜びます。」この「多くの人」のなかにあなたやわたしをいれてもらえます。

不可能を抱える夫婦、それでも神に忠実なふたりを通し働く神様からの御声を聴きます。わたしたちはルカのペンから御声を聴いています。神の御業に触れています。不安と恐怖に襲われる中でみことばを聴くとき、私たちは世の闇を切り裂き、侵入する神の約束を喜び、楽しむことが許されています。

今日、ここで!

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