ルカ1章1節ー4節から、蕨キリストの教会の戸村甚栄伝道者が解き明かしをしてくださいます。戸村伝道者は、現代日本人に語りかけるルカ福音書のメッセージを、非常にわかりやすく語ってくださっています。ご期待ください。
わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
ルカ1章1ー4節 聖書協会
ルカの時代
ルカの時代は、別の意味で彼が書き始めようとする方の存在は人々の意識外、遠くにあったはずです。なにせエルサレム城壁外で十字架にかかられた方のことです。のろわれた者のことです。汚らわしく悲惨な出来事はまだ人々の記憶に生々しく残っていただろうと思う。それに、エルサレムが崩壊してゆく国家激変の中、十字架にかかられた方に対する受け止めは限られた小数の間だけであったことは想像できます。
他方、ローマのコロシアムでは格闘技や野獣と人間との闘いなどがエンターテイメントとして行われていた。帝国の支配下にある各地には同様な建造物が建てられ、日夜の催しごとで人心を束ねていた。キリスト者の迫害現場としても歴史書では描かれるコロシアムが散在し、当時人々の不満を封じ込めていたようです。何れにしても、その時代特有の政治・社会状況にあって、ルカが取り組もうとしている事柄は人心からはるか遠い位置にあったことが想像できます。その状況下で彼が、先ず目を留めたのは、時代の流行りでなく、時代状況にではありませんでした。ルカは主イエス・キリストを書き始めます。歴史家ルカが書くことは当然ながら時代のなか、歴史の流れにあって行われることであるが、決してそれらに埋もれて記述することではなかった。そうではなく、ルカは時代を変革するため、新しい時代の到来を告げるために書きます。その書き始めが以下の通りです。
ルカの前にすでに書かれていた福音の物語
「私たちの間で」と初めにあります。厳しい社会状況下、そして人心が時代の空気に流れる中で、「私たち」、と呼べる群れ、エクレシアが存在しています。どの時代でも、私たち、と呼び合える兄弟姉妹の存在は、先ず向くべき御方に向く励ましとなり覚醒の支えです。「私たち」と言い、確信されている出来事があります。この出来事について様々なかたちで伝えようとすでに開始していることをルカは承知しています。
たとえば、「みことばに仕える者」となった人々とはどのような者であっただろうか。仕えるべきはローマ皇帝であり、その手先となっている諸国の指導者であった時代に、みことばに仕える者となった、と言うのです。ローマ帝国が世界とされる時代、それを超えて仕えるべきことばがある、仕える王なる方がおられる、そのことに、その方に仕える人々、仕える者となった人々、キリスト者のことです。
ルカが書いた福音書の目的
その上で、「私も」、とことわります。時代の荒波に飛び出しているキリスト者を認め、「私も」、と意志表示し、これからの計画を述べます。「私も」、と言うのは、すでに始めていることに競争する意図ではありません。むしろ、先人たちの労苦を認識し、正しさを受けて始める宣言です。私が出会い、受けたことを書く宣言です。私が果たすべき、主イエス・キリストの御業と人格を書く覚悟の、「私も」、です。「私も」とことわりルカ自身の名を挙げません。みことばに仕えるひとりとされた者の姿がここにあります。
他方、この事業を共に遂行する人物の名を紹介します。自分の名はふせ、他者の名は明記する、ルカの人柄が垣間見られる気がします。あなたのためにと、ことわり、そのあなたが、テオピロ殿です。神の友とも言われ、名前がギリシャ的なことから、もしかしたらヘブライ人ではなく、むしろ異邦人の背景を持つ者であったかも知れません。それだけに、この著者との近さがあったかも知れない。
殿と地位を思い、型どおりの呼びかけでは無く、尊敬の思いを現す言葉が添えられます。実際、尊敬すると記していることから、ルカとはこころがかよい、人格的触れあいが深くあったことが分かります。ルカを支援していた人物であったとも言われます。世界が背を向ける事柄に心血を注ぐルカを認め、手を差し伸べる一人です。ルカにとりどれだけの励ましであっただろうか。テオピロにとって、名を明らかにすることは自身に危険を招くことでもあったと想像します。それでも、受けて立ちルカの側にいます。人物を特定できないが、名を持っています。ルカと具体的関係を持ち、働きの果実を捧げる者であったのは確かです。
ルカが綿密に調査して書いた福音書
「すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、・・・、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。」書き手の取り組み方が表明されています。繰り返すようだが、当時としてはなんら価値を認められない、むしろ疎外されたテーマを追おうとする明白な姿勢が現されます。当時の社会の有益性に照らすなら一文にもならない、非生産的な事です。社会的に評価されるわけでもなく、今日のスマート・フォンのように便利で親しまれるようなものでなく、むしろ無用で敵対者さえ生み出すようなものです。
せいぜい、テオピロ殿だけが目を向けてくれることです。それでも、このテオピロのために、「すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。」と表明して止みません。社会が、世界がどのように評価するかが書き手の判断基準ではありません。書き手を動かす力は、書く内容自体にあります。時代ごとに向き合う事象は千差万別です。その渦中にあって、先ず向き合うのはこれです、と書き手はすべてを初めから綿密に調べ順序よく書きます。
ひとりの人から世界へ
このような一人の者への関わりの結果、やがて福音書が世界あまねく読まれることは神の不思議な導きと言わざるを得ません。それと同時に、福音の特質が現われているとも言えます。福音は一人に届く「よきおとずれ」です。一人に届く「喜びの知らせ」です。テオピロに思いを込めて届けようとする福音は、「失われた者をさがし、救うために来られた。」主イエス・キリストの思いが、これを聴く者ひとり一人に届く「よきおとずれ」となります。一人に対するルカの熱意は、まさに、一人の異邦人であるルカを見落とさず眼差しを注いでくださった主イエス・キリストとの原体験がもたらし、パウロの熱、そして主イエス・キリストご自身の思いが重なっています。
この注がれる思いに身を向ける者が、届いている恵みの真実をあらためて確信します。すでに受けた教えの真実が正確であったと、読むたびにこころを震えさせ、確信させる気持ちはどうであっただろうか。厳しく、また無関心な社会で、たとえ少数派であったとしても、当時の空気には無い喜びといのちが湧き上がる思いであったと想像します。この書を、今日手にする者にとり、同様な響きをもって聴こえてくるだろうか。聴こえて欲しい。すでに受けた教えがそうだ、そうである、そうなんだ、と聴こえ、こだまするだろうか。そうであって欲しい、主イエス・キリストはそれを期待し、望んで与えてくださった書です。
確信から確信へと読み進んで欲しいのです。その確信の源泉をわかって欲しいのです。わかることから動く者となって欲しいのです。主イエス・キリストがわかっていてくださるわたしたちが、主と生きる者となって欲しいのです。すでに、あなたがたは正確な事実の教えを受けているからです。そのことをよくわかって欲しいのです。
目先になにがあろうとも、あなたの手に乗るものがなんであろうとも、あなたの耳に届くものがなんであろうとも、ルカが「すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。」と宣言し、あなたに届けるみことばの前に先ず、身を置き、耳を傾けてください。ルカの情熱を、ルカに情熱を注がれる主イエス・キリストの前で、そのお方があなたに訪れるほどの愛の方であることを生きてください。主イエス・キリストの御前でルカは生き続けました。やりとげました。その足取りにわたしたちは実に足を踏み入れました。
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